エテリチームで指導をし、プルシェンコ・エンジェルズに移籍したロザノフ・コーチのロング・インタビューがSport24に掲載されていましたので、何回かにわけて紹介します。第1回は、ロザノフ・コーチがエテリチームに入るまでです。
「プルシェンコへの移籍はトルソワの両親が提案した」1年半沈黙していたロザノフ・コーチの率直なインタビュー
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「プルシェンコへの移籍はトルソワの両親が提案」1年半沈黙のロザノフ・コーチが率直に語る
2021/6/2 / Sport24
セルゲイ・ロザノフは、近年のロシア・フィギュアスケートの重要人物の一人である。1年ちょっと前まで、「クリスタル」でエテリ・トゥトベリゼ、セルゲイ・ドゥダコフ、ダニール・グレイヘンガウスに次ぐ4人目のコーチであったが、昨年5月、アレクサンドラ・トルソワとともに「プルシェンコ・アカデミー」へと移籍し、SNSでヒステリーを呼び起こした。ロザノフは、「クリスタル」はほぼ破綻させたと非難された。
世間を騒がせた移籍の数カ月後、セルゲイはトルソワへの指導をやめ、アリョーナ・コストルナヤに集中した。これら選手たちが「クリスタル」に戻った後もロザノフは「エンジェルズ」に残った。CSKAに移籍を希望したという情報にもかかわらず。こういった間ずっと大量のヘイトに耐えていたが、黙っていた。この瞬間まで。
1年半ぶりのインタビューを、ロザノフは「Sport24」の「フィギュアスケート」チャンネルで行った。エマ・ガジエワとの会話の中で、セルゲイは「クリスタル」と「エンジェルズ」での仕事についての真実すべてを語り、またあの移籍劇が実際どのように起こったのかについて打ち明けた。
「ジャーナリズムとかインタビューに関係するものはすべてあまりすきではない。ただすべきことをして、何も大げさに言わないよう努めている」と、会話の最初にロザノフは長い間の沈黙について説明した。
(このような難しいシーズンを終えて、気分はいかがですか?)
素晴らしい気分です。シーズンは辛かったのですが、みんなにとって興味深いものでした。私には新たにたくさんのことがありました。仕事のなかでやってしまった間違いは、分析して見直しました。それと同時に、今後の活動のために強調したい前向きな側面もありました。
(それでは最初に経緯に入っていきましょう。私たちは一緒に大会に出るのを辞めましたね。私はジャーナリストに、あなたはショーに。その時期はどんなふうにできあがって行ったのでしょうか。)
イリヤ・アヴェルブフのショーでかなり長い間滑っていました。そこでわかったのは、私にできないことが多いということです。そのときはアレクセイ・ヤグディン、ロマン・コストマロフとタチヤナ・ナフカ、マックス・マリニンとターニャ・トチミャニナ、マーシャ・ペトロワとリョーシャ・チホノフも出演していました。こういった人たちそれぞれから何か学ぶことができるとわかったのです。アヴェルブフ自身も含めて。滑ってみんなから学ぶのが好きでした。これがだいたい5-6年続きました。
(なぜコーチになろうと決断したのでしょうか。)
前に進む必要があるとわかったからです。個人レッスンを初めて、いろいろなスポーツスクールから私のところに選手が来て、電話や指導の依頼も受けるようになりました。いろいろなリンクで指導をしていました。
選手たちは、「どこかで常勤になってくれればありがたいです。先生の指導を受けたいので」と言ってくれるようになりました。固定で仕事をしていたのではなく、ただショーで滑って小さな選手たちを手伝っていただけなので。その際に、「氷河期(アイス・エイジ)」のリンクで彼らの指導をする機会はないかとアヴェルブフに頼みました。リンクの一般営業ではたくさんの人たちがいるので、3回転ジャンプを学ぶのは不可能です。アヴェルブフは同意してくれて、アリーナが空いている場合は朝の6時から10時までの時間をもらえました。本当にイリヤには多くのことについて感謝しています。
(その後、「モスクヴィチ」で若い選手を手伝うようになったのですか?)
ええ。そこでたくさんの選手の指導をしました。彼らのお手伝いをしながら、自分も成長しました。
(「クリスタル」には2017年にいらっしゃいました。どのようにそれは起こったのでしょうか。)
私自身、「セレブリャヌィ」リンクでエテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)のもとで練習することがありました。14歳の頃です。その練習では良かったことばかりを覚えています。トゥトベリゼのもとで多くの選手が練習をシていて、彼女は仕事に強く打ち込んでいました。いい加減なことはできませんでした。しかも、彼女はジョークを交えて練習プロセスを作っていました。私はいつも彼女のところでの練習をしたいと思っていました。なにか面白いところがあったからです。
コーチとしては、「モスクヴィチ」で働くようになる半年前頃にトゥトベリゼのところに行ったことがあります。リンクにポストがあるかどうか訊いたのです。その頃、私には7-8名の選手がいました。彼女はもう空きはないと答えました。エテリ・ゲオルギエヴナは探していたのですが、すでにチームに招聘する人を見つけていました。私が彼女のところに行ったちょうど2日前に、ダニール・グレイヘンガウスが来ていました。
(先に来ていたら、彼ではなくあなたが採用されていたかもしれないということですか?)
それはどうでも良いことです。そのときエテリ・ゲオルギエヴナは、もう人は見つかったと言いました。私に自分を試したいという十分な野心があると気づいてくれました。彼女の助言を聞いて、「モスクヴィチ」で仕事をするようになりました。
(それでも、いつの時点で「クリスタル」に来たのでしょうか。)
「モスクヴィチ」の後、私は1シーズンずっと個人で仕事をしていて、イリヤのショーでまた滑っていました。ある時点で、エテリ・ゲオルギエヴナの選手たちに個人レッスンをするようになりました。彼女は、年少グループの選手たちの手伝いをすることを提案してくれたのです。
あるとき、私は「モスクヴィチ」で生産的な指導をしていたコーリャ・コレスニコフを彼女のところに連れていきました。トゥトベリゼはロシアで、そしておそらく世界で一番強力なコーチですから、彼をもっと伸ばしてもらいたいと提案したのです。結果として、彼は7歳でエテリ・ゲオルギエヴナのもとで滑るようになりました。
私が「モスクヴィチ」で指導をしているときに、トルコの選手であるバシャール・オクタルが私のところにやってきました。次の夏もまた指導を依頼してきました。私は、残念ながら私には彼を割り当てるところがどこにもないと答えました。それで、エテリ・ゲオルギエヴナのところに行くことを提案しました。彼にとってはトップレベルのところで、たくさん学ぶことがあると言って。トゥトベリゼと放して、バシャールは合宿にやってきました。2017年のノヴォゴルスクです。彼の練習のところにゲストとして来たとき、エテリ・ゲオルギエヴナが「あなたの選手?リンクに入って指導してください」と言ってくれました。リンクに入って指導を始めました。2-3日して彼女は、年少グループすべてを指導してもよいと言ってくれたのです。つまり、単にゲストとして寄ったらチームに残れたというだけです。
(続く)
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