トゥトベリゼ・コーチの元教え子で、カザフスタンのアイスダンス代表となり、トゥトベリゼの下でコーチもしていたヴィクトル・アドニエフのロングインタビューがGazeta.ruに掲載されていましたので、数回(4-5回?)に分けて紹介します。ちょっと時間がかかりそうですがお許しください。
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
(1)トゥトベリゼとの関係 ← この記事
(2)若年化と自身の引退
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
エリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
有名なコーチ兼振付師であるヴィクトル・アドニエフは、フィギュアスケートの道をエテリ・トゥトベリゼのグループで始めた。彼女はアメリカから戻ってきたばかりで、モスクワで最初の教え子を募集していた。その後トゥトベリゼは彼がクリスタルでコーチ業を始めるのを支援し、一方アドニエフは今年の5月、アレクサンドラ・トルソワの移籍後にトゥトベリゼを支援する熱い声明を発した。Gazeta.ruのインタビューでアドニエフは、トゥトベリゼの性格や原則に関する神話を払拭し、ユリヤ・リプニツカヤとエヴゲニヤ・メドヴェデワの共同指導について告白し、エテリがかつてなぜアンナ・シチェルバコワにチームから去るよう言ったのか、またいかに自身が彼女をクリスタルに戻るのを助けたのかを説明し、そして世界選手権に自費で同行したアンナ・ポゴリラヤとの協力について語った。
(フィギュアスケートを始めたのはもう11歳のときだったとおっしゃっていましたね。)
ええ、スケートを始めたのは10月で、そのときはまだ10歳でしたが、12月1日には11歳だったので。
(なぜ始めたのはそんなに遅かったのですか?)
歌手にすごくなりたかったんです。すごく良い声でしたし、たくさんのコンサートにも出ていて、地元では一番の子供だと言われていましたので、グネーシン音楽学校に入りたいと思っていました。しかし両親は歌手になってもらいたくないようで、歌手は職業ではないと言われていました。
その後、母がCSKAで子供のグループを指導していた知り合いと偶然交流するようになり、その知り合いが、「子供をリンクに来させてみたら?あなたの帰りを待つだけじゃもったいないじゃない」と言ってくれたのです。そこからすべてが始まりました。あまりに大好きになってしまったので、「絶対に滑りたい!」と言ったのです。
始めるのがおそすぎるので何もうまくはいかないと警告されましたが、頑固な少年だったようです。
CSKAで練習を始めましたが、グループには入っていませんでした。あまりに歳を取りすぎていたので誰も入れてくれなかったのです(笑)。
とはいえ、リンクには母の知り合いがいましたから、彼女がリンクに入るのを認めてくれました。その後、「セレブリャヌィ」リンクに移籍しました。
(そこでエテリ・トゥトベリゼが働いていたのですか?)
彼女は私が移籍して1年くらいしてから現れました。アメリカから戻ったばかりでした。
(なぜ彼女のグループ二移籍を決めたのですか?そのときからコーチのポテンシャルは目立っていたのでしょうか。)
もちろんです!彼女のような仕事は誰もしていないと、すぐに分かりました。エテリ・ゲオルギエヴナはとてもひたむきだったので、彼女のグループはすぐに大きくなり、新しい子どもたちがどんどん入ってきました。人が機能しているときは、すぐにわかります。
(そのときのトゥトベリゼのグループの練習はどのようなものだったのでしょうか。有名なクリスタルでの素晴らしい環境に比べて。)
正直に言うと、そのときの環境はあまり良くありませんでした。リンクはホッケーグループに優先して貸し切られていたので。1日に練習は1セッションだけ、1時間か1時間15分だけでした。
ですので、リンクにはとってもたくさんの子どもたちが練習していました。基礎体力トレーニングやランニングが2.5時間とか…。
氷上練習はとても少なかったので、1日に2時間の練習が2回あるようなトップ・グループに追いつくことはそのときはできませんでした。あのCSKAとか、若年ピオネール・スタジアムとか、モスクヴィチとか…。
1時間の氷上練習というのは、特に小さい子どもたちの指導をしているときはまったく練習になりません。大人であれば話は別で、全部できるならば1日に1.5時間でも十分です。しかし、小さい子供はたくさん練習しなければなりません。
いまはスケートを始める環境はだいぶ良くなりました。リンクがたくさんあるので。その時はとても大変でした。週に2-3回、1時間の氷上練習を確保できたら嬉しかったくらいです。
(トゥトベリゼのグループではどのような進歩が達成できましたか?)
エテリ・ゲオルギエヴナの下では、跳べないということはありえません。彼女の意欲はとても強く、また選手に練習させるうまさがありますので…彼女のことは騙せません。
人が自分のすべきことに全身を捧げているときを、彼女はいつだって感じとります。2年半の間にかなり多くのことを習得しました。2回転すべて、2回転半のアクセルを跳び、3回転も練習していました。その時期では悪くないものでした。しかも、新人でしたし、1日1時間しか氷上練習がなかったにしては。
フロアではすでに3回転すべてと4回転も跳んでいました。しかし、フロアで跳ぶのと、氷上で跳ぶのはまったく同じというわけではありません。フロアではかなり早く跳躍力を身につけて高く跳び、すばやく回ることを身に付けられるのですが、氷上では私はそんなにうまくできませんでした。というのも、何年もかけて身につくスケーティングの基礎がなかったからです。もし氷を感じることができれば、身体の動き方がまったく違ったふうになると思います。
(その時期はお金が足りないこともあったとおっしゃられていましたが。)
正直に言うと、そうです。
うちはとても貧乏な家で、エテリ・ゲオルギエヴナにお金が払えないこともよくありました。彼女はお金を取らないこともありました。私たちの状況を知っていたので。そして、そういう子はわたしだけではありませんでした。服までくれたりしたこともありました。
(大会用の衣装代を払ってくれたのですか?)
いいえ、エテリ・ゲオルギエヴナは服をくれました。とても上質なブランド物の。おそらく、誰かの親戚が外国から持ってきたものだったのでしょう。もしかすると古着だったかもしれませんが、古着だったとしても幸せでした。その頃はなにか手に入れるのも大変だったので。
あとになって、彼女は恐ろしいコーチだとか暴君だとか言われています。そう、指導ではかなり大変な人ですが、私はそれで正しいと思います。私もそういうふうになりましたし。子どもたちにうまくできないことがあれば、それをさせるようにします。叫んだり、首筋を打ったりすることもあります。結果を出したいのなら全く正しいことです。コーチが永遠に頭をなで続けたら、どうなるでしょうか。
実際のエテリはまったく違います。いつだって電話をかけていい人間です。私がアイスダンスに転向したときも、彼女はずっと私とともにいてくれました。色々なグループに連れて行ってくれたり、パートナーを探してくれたり、いつも心配してくれていました。まるで姉のようでした。
(トゥトベリゼのグループからアイスダンスに転向されたのですね。)
彼女が転向させてくれたのです。始めたのが遅かったためにひどく膝が痛むようになり、シングルでは大成しませんでした。成長期に膝がもう持たなかったのです。
それでも私は頑なに否定しました。「ダンスなんて嫌だ、ジャンプを跳びたい!」と。ジャンプ中毒だったのです。しかしエテリは「ハンサムなんだから、ダンスをしてみたらいいじゃない!滑れるはず」と答えました(厳しい声マネ)。「エテリ・ゲオルギエヴナ、パートナーと滑るなんてしたくないです!自分だけにすべてがかからなくなってしまいます」。「やってみなさい!インテリ家族の青年のようにみえるから、合うはず!」(笑)。
彼女自身が私をオジンツォヴォに連れて行ってくれて、一緒に行ってくれました。いつも隣りにいてくれたのです。パートナーと問題が起こったり、なにか解決しなければならないことがあっったら、助けてくれました。ですので、あたかもエテリは実際は金がほしいだけというようなことを言われても気にしません。
何が問題なのでしょうか?彼女は仕事をするために自分でお金を払う用意もあるのです。また、教え子全員を、指導を終えるときにはどこかに紹介していました。全員です!私のグループの生徒もです。コーチにさせて、お金を稼げるように個人指導を紹介したり。誰もそんなことをまったく言っていませんが。
みんなを集めて直接言いたいです。「みんな、頭がおかしいのか?どうしてこのことを言っているのが私だけなのか?認めるのが難しいのか?」と。
服をくれたのは私にだけではありません。お金を取らなかったのも私からだけではありません。そのときは、本当に大変だったのです。その頃は皆にお金がったわけではありません。
(続く)
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
(1)トゥトベリゼとの関係 ← この記事
(2)若年化と自身の引退
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
https://www.gazeta.ru/sport/2020/07/13/a_13151275.shtmlエリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
有名なコーチ兼振付師であるヴィクトル・アドニエフは、フィギュアスケートの道をエテリ・トゥトベリゼのグループで始めた。彼女はアメリカから戻ってきたばかりで、モスクワで最初の教え子を募集していた。その後トゥトベリゼは彼がクリスタルでコーチ業を始めるのを支援し、一方アドニエフは今年の5月、アレクサンドラ・トルソワの移籍後にトゥトベリゼを支援する熱い声明を発した。Gazeta.ruのインタビューでアドニエフは、トゥトベリゼの性格や原則に関する神話を払拭し、ユリヤ・リプニツカヤとエヴゲニヤ・メドヴェデワの共同指導について告白し、エテリがかつてなぜアンナ・シチェルバコワにチームから去るよう言ったのか、またいかに自身が彼女をクリスタルに戻るのを助けたのかを説明し、そして世界選手権に自費で同行したアンナ・ポゴリラヤとの協力について語った。
エテリはレッスン料を取らず、服までくれた
(フィギュアスケートを始めたのはもう11歳のときだったとおっしゃっていましたね。)
ええ、スケートを始めたのは10月で、そのときはまだ10歳でしたが、12月1日には11歳だったので。
(なぜ始めたのはそんなに遅かったのですか?)
歌手にすごくなりたかったんです。すごく良い声でしたし、たくさんのコンサートにも出ていて、地元では一番の子供だと言われていましたので、グネーシン音楽学校に入りたいと思っていました。しかし両親は歌手になってもらいたくないようで、歌手は職業ではないと言われていました。
その後、母がCSKAで子供のグループを指導していた知り合いと偶然交流するようになり、その知り合いが、「子供をリンクに来させてみたら?あなたの帰りを待つだけじゃもったいないじゃない」と言ってくれたのです。そこからすべてが始まりました。あまりに大好きになってしまったので、「絶対に滑りたい!」と言ったのです。
始めるのがおそすぎるので何もうまくはいかないと警告されましたが、頑固な少年だったようです。
CSKAで練習を始めましたが、グループには入っていませんでした。あまりに歳を取りすぎていたので誰も入れてくれなかったのです(笑)。
とはいえ、リンクには母の知り合いがいましたから、彼女がリンクに入るのを認めてくれました。その後、「セレブリャヌィ」リンクに移籍しました。
(そこでエテリ・トゥトベリゼが働いていたのですか?)
彼女は私が移籍して1年くらいしてから現れました。アメリカから戻ったばかりでした。
(なぜ彼女のグループ二移籍を決めたのですか?そのときからコーチのポテンシャルは目立っていたのでしょうか。)
もちろんです!彼女のような仕事は誰もしていないと、すぐに分かりました。エテリ・ゲオルギエヴナはとてもひたむきだったので、彼女のグループはすぐに大きくなり、新しい子どもたちがどんどん入ってきました。人が機能しているときは、すぐにわかります。
(そのときのトゥトベリゼのグループの練習はどのようなものだったのでしょうか。有名なクリスタルでの素晴らしい環境に比べて。)
正直に言うと、そのときの環境はあまり良くありませんでした。リンクはホッケーグループに優先して貸し切られていたので。1日に練習は1セッションだけ、1時間か1時間15分だけでした。
ですので、リンクにはとってもたくさんの子どもたちが練習していました。基礎体力トレーニングやランニングが2.5時間とか…。
氷上練習はとても少なかったので、1日に2時間の練習が2回あるようなトップ・グループに追いつくことはそのときはできませんでした。あのCSKAとか、若年ピオネール・スタジアムとか、モスクヴィチとか…。
1時間の氷上練習というのは、特に小さい子どもたちの指導をしているときはまったく練習になりません。大人であれば話は別で、全部できるならば1日に1.5時間でも十分です。しかし、小さい子供はたくさん練習しなければなりません。
いまはスケートを始める環境はだいぶ良くなりました。リンクがたくさんあるので。その時はとても大変でした。週に2-3回、1時間の氷上練習を確保できたら嬉しかったくらいです。
(トゥトベリゼのグループではどのような進歩が達成できましたか?)
エテリ・ゲオルギエヴナの下では、跳べないということはありえません。彼女の意欲はとても強く、また選手に練習させるうまさがありますので…彼女のことは騙せません。
人が自分のすべきことに全身を捧げているときを、彼女はいつだって感じとります。2年半の間にかなり多くのことを習得しました。2回転すべて、2回転半のアクセルを跳び、3回転も練習していました。その時期では悪くないものでした。しかも、新人でしたし、1日1時間しか氷上練習がなかったにしては。
フロアではすでに3回転すべてと4回転も跳んでいました。しかし、フロアで跳ぶのと、氷上で跳ぶのはまったく同じというわけではありません。フロアではかなり早く跳躍力を身につけて高く跳び、すばやく回ることを身に付けられるのですが、氷上では私はそんなにうまくできませんでした。というのも、何年もかけて身につくスケーティングの基礎がなかったからです。もし氷を感じることができれば、身体の動き方がまったく違ったふうになると思います。
(その時期はお金が足りないこともあったとおっしゃられていましたが。)
正直に言うと、そうです。
うちはとても貧乏な家で、エテリ・ゲオルギエヴナにお金が払えないこともよくありました。彼女はお金を取らないこともありました。私たちの状況を知っていたので。そして、そういう子はわたしだけではありませんでした。服までくれたりしたこともありました。
(大会用の衣装代を払ってくれたのですか?)
いいえ、エテリ・ゲオルギエヴナは服をくれました。とても上質なブランド物の。おそらく、誰かの親戚が外国から持ってきたものだったのでしょう。もしかすると古着だったかもしれませんが、古着だったとしても幸せでした。その頃はなにか手に入れるのも大変だったので。
あとになって、彼女は恐ろしいコーチだとか暴君だとか言われています。そう、指導ではかなり大変な人ですが、私はそれで正しいと思います。私もそういうふうになりましたし。子どもたちにうまくできないことがあれば、それをさせるようにします。叫んだり、首筋を打ったりすることもあります。結果を出したいのなら全く正しいことです。コーチが永遠に頭をなで続けたら、どうなるでしょうか。
実際のエテリはまったく違います。いつだって電話をかけていい人間です。私がアイスダンスに転向したときも、彼女はずっと私とともにいてくれました。色々なグループに連れて行ってくれたり、パートナーを探してくれたり、いつも心配してくれていました。まるで姉のようでした。
(トゥトベリゼのグループからアイスダンスに転向されたのですね。)
彼女が転向させてくれたのです。始めたのが遅かったためにひどく膝が痛むようになり、シングルでは大成しませんでした。成長期に膝がもう持たなかったのです。
それでも私は頑なに否定しました。「ダンスなんて嫌だ、ジャンプを跳びたい!」と。ジャンプ中毒だったのです。しかしエテリは「ハンサムなんだから、ダンスをしてみたらいいじゃない!滑れるはず」と答えました(厳しい声マネ)。「エテリ・ゲオルギエヴナ、パートナーと滑るなんてしたくないです!自分だけにすべてがかからなくなってしまいます」。「やってみなさい!インテリ家族の青年のようにみえるから、合うはず!」(笑)。
彼女自身が私をオジンツォヴォに連れて行ってくれて、一緒に行ってくれました。いつも隣りにいてくれたのです。パートナーと問題が起こったり、なにか解決しなければならないことがあっったら、助けてくれました。ですので、あたかもエテリは実際は金がほしいだけというようなことを言われても気にしません。
何が問題なのでしょうか?彼女は仕事をするために自分でお金を払う用意もあるのです。また、教え子全員を、指導を終えるときにはどこかに紹介していました。全員です!私のグループの生徒もです。コーチにさせて、お金を稼げるように個人指導を紹介したり。誰もそんなことをまったく言っていませんが。
みんなを集めて直接言いたいです。「みんな、頭がおかしいのか?どうしてこのことを言っているのが私だけなのか?認めるのが難しいのか?」と。
服をくれたのは私にだけではありません。お金を取らなかったのも私からだけではありません。そのときは、本当に大変だったのです。その頃は皆にお金がったわけではありません。
(続く)
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