トゥトベリゼ・コーチの元教え子で、カザフスタンのアイスダンス代表となり、トゥトベリゼの下でコーチもしていたヴィクトル・アドニエフのロングインタビューがGazeta.ruに掲載されていましたので、数回(4-5回?)に分けて紹介します。ちょっと時間がかかりそうですがお許しください。第3回は、エテリ時代の指導についてです。
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
(1)トゥトベリゼとの関係
(2)若年化と自身の引退
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ ← この記事
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
エリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
(続き)
(健康を取り戻し、コーチ業に移行することを決めて、最初に何をしましたか?)
エテリ・ゲオルギエヴナに電話をかけました。
(素晴らしいスタートですね。)
まあ、そうですね。彼女は、「私のところに来てください。仕事を見てみましょう」と言ったので、私は「エテリ・ゲオルギエヴナ、私には経験がまったくないのですが」と答えたところ、「問題ありません、あなたはアイスダンサーなのですから、スケーティングの指導ができるでしょう。」と。
正直に言えば、採用されるとは思っていませんでした。ところが採用してもらえました。そのとき、彼女のところではワズゲン・アズロヤンが仕事をしていましたが、彼はなぜかすぐに辞めてしまったので私が採用されました。2012年のことです。
(最初のうちはグループの中で何を任されたのですか?)
すぐにすべてを任されました。
選手のあとを追いかけ、全員の指導をし、すぐに大会にも選手に同行するようになり、エテリ・ゲオルギエヴナと一緒にプログラムの振付けもしていました。
コレオの練習にも行って、教え子たちのレッスンを監督し、ウォームアップとクールダウンも指導していました。例外は一つだけ、ジャンプの指導はしていませんでした。
このように、あらゆる年齢の選手の指導を始めたのです。朝10時に出勤して、夜10時に退勤していました。
(そのときは、グループはまだ小さかったのでしょうか?)
ええ、でもいずれにせよ子供は多かったです。
(その頃、あなた以外にコーチ陣としてどなたがいらっしゃいましたか?)
セルゲイ・ドゥダコフとエテリです。
(3人だけ?それで全員を見られたのですか?)
もちろんです!
いまはコーチはリンクには普通は入らず、緊急事態のときだけだと言われていました。しかしその頃はいつもリンクに入っていました。リンクの外にいたのは、毎夕の、選手たちの通し練習の時だけです。
選手は6分間ウォームアップして、一人ずつプログラムを見せていました。これは強制でした。その他の時間は、私達も氷上にいました。
私はほとんどスケート靴の中で生きていました。クリスタルに朝6時に来て、別のグループの小さな子どもたちの個別指導もしていましたので。
(クリスタルでは振付師としても仕事をされていましたが、その時期はどんなプログラムの振付けをしましたか?)
すべてをエテリ・ゲオルギエヴナとともに振り付けていました。あのプログラムはあの具体的な振付師が振り付けたんだ、ということは本当のことではないんですよ。このグループでは、すべてが共同で振付けられます。今も、ダーニャ・グレイヘンガウスはおなじようにしています。エテリ・ゲオルギエヴナと一緒に、何をどうするかを決めているのです。私たちも同じように振付けをしていました。
ただ一つ、まさに私のアイディアだったのは、ジェーニャ・メドヴェデワが初めて世界選手権金メダリストとなったときの音楽です(編注:有名な「聞こえる/聞こえない」)。
そのとき、「ウォリスとエドワード」の映画を見て、サウンドトラックが死ぬほど気に入ったので、それで演技のためにその一部からトラックを作ったのです。みんなすごく気に入ってくれて、結果として2015/16シーズンのメドヴェデワのフリープログラムで使用されました。
最初はこの曲はリプニツカヤが使うことになっていて、プログラムの振付けまで終わっていました。素晴らしいできだったのですが、ユーリャ(リプニツカヤ)が最終的に望まなかったため、みなさんが見ることがなかったのは残念です。けれど、このプログラムは「シンドラーのリスト」よりも良かったと思っています。
(それはすごい・・・)
はい、良いプロでした。
(クリスタルで指導をしている間に、リプニツカヤに対しPCSの側面を好きになるよう教え込んだとおっしゃっていました。つまり、彼女は最初は技術面の方がより研ぎ澄まされていたと。)
ユーリャはスケーティングを嫌っていました。本当に!スケーティングやプログラムの通し練習をさせるのは本当に大変でした。
私自身がアイスダンスの選手だった時、なぜいつも同じものを滑っているのか、なぜいろいろなステップを踏んではいけないのかと、いつもイライラしていました。それで、指導を始めた時には、毎日何か新しいものを持ってくるという目標を立てました。そうしないと、教え子たちは毎回の練習で「なんて日だ、いったいいつ終わるんだ」と思うことでしょう。
練習では目が燃えていてほしかったのです。常に何か新しいもの、新しいステップや新しい組み合わせを滑っていれば、みんな興味を持ちますし、技術の習得が好きになります。
私がクリスタルに来るまでは、そういったスケーティング指導の仕組みはありませんでした。以前はみんなに同じステップを指導していました。私はこの方向性を発展させ、体幹の動きを加えるなどしていきました。もちろん、選手がすでにすべてのステップを習得して、何をしているのかを理解していることが前提ですが。
(その時期、エヴゲニヤ・メドヴェデワにはどんな指導を。)
プログラムやスケーティング、それに大会にも同行していました。その頃はまだ今ほど有名ではありませんでしたが、一般的に、すでに出来上がった選手を指導するよりも、子供と仕事をしてなにか教える方が大変だと思います。頼んだことを簡単に実現してくれるので。
ジェーニャ(メドヴェデワ)は私にとって他にはいない選手です。彼女はつねに掘り下げてくるのです。彼女は何かをさせるということが必要ないだけでなく、すべきことを言い終わる前にもう行ってやっているような感じです。しかも、練習好き中の練習好きです。メドヴェデワのような選手は数少ないでしょう。
彼女がエテリの下を去ったときはとてもがっかりしました。ひどく。トゥトベリゼは彼女のためにすべてをしたのです。できうる限りすべてのことを!
ジェーニャが残っていれば4回転を100%跳べるようになったのではないでしょうか。去った理由は知りません、二人の関係のことなので。
(かつての教え子とも連絡をとっていますか?)
ええ、もちろんです。とはいえ、会うことは稀ですが。それに、とても、正直にとてもエテリにも会いたいと思っています。ですが、うまいこと行きません。彼女のことはいまでもちょっと怖いです。
コーチとしての彼女を尊敬しつつ、少し怖いと思うことに慣れてしまっていて、それが続いています(笑)。しかしお会いしていろいろお話したいです。仕事のことだけではなく。近親者のように感じています。
わたしたちは両方とも辛い人生がありました。彼女は父母を亡くし、私は母と祖母をなくしています。大変でしたが、ここでも似ているところがあります。
(続く)
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
(1)トゥトベリゼとの関係
(2)若年化と自身の引退
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ ← この記事
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
https://www.gazeta.ru/sport/2020/07/13/a_13151275.shtmlエリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
(続き)
リプニツカヤはスケーティングを嫌っていたが、私がトゥトベリゼのグループでそれを伸ばし始めた
(健康を取り戻し、コーチ業に移行することを決めて、最初に何をしましたか?)
エテリ・ゲオルギエヴナに電話をかけました。
(素晴らしいスタートですね。)
まあ、そうですね。彼女は、「私のところに来てください。仕事を見てみましょう」と言ったので、私は「エテリ・ゲオルギエヴナ、私には経験がまったくないのですが」と答えたところ、「問題ありません、あなたはアイスダンサーなのですから、スケーティングの指導ができるでしょう。」と。
正直に言えば、採用されるとは思っていませんでした。ところが採用してもらえました。そのとき、彼女のところではワズゲン・アズロヤンが仕事をしていましたが、彼はなぜかすぐに辞めてしまったので私が採用されました。2012年のことです。
(最初のうちはグループの中で何を任されたのですか?)
すぐにすべてを任されました。
選手のあとを追いかけ、全員の指導をし、すぐに大会にも選手に同行するようになり、エテリ・ゲオルギエヴナと一緒にプログラムの振付けもしていました。
コレオの練習にも行って、教え子たちのレッスンを監督し、ウォームアップとクールダウンも指導していました。例外は一つだけ、ジャンプの指導はしていませんでした。
このように、あらゆる年齢の選手の指導を始めたのです。朝10時に出勤して、夜10時に退勤していました。
(そのときは、グループはまだ小さかったのでしょうか?)
ええ、でもいずれにせよ子供は多かったです。
(その頃、あなた以外にコーチ陣としてどなたがいらっしゃいましたか?)
セルゲイ・ドゥダコフとエテリです。
(3人だけ?それで全員を見られたのですか?)
もちろんです!
いまはコーチはリンクには普通は入らず、緊急事態のときだけだと言われていました。しかしその頃はいつもリンクに入っていました。リンクの外にいたのは、毎夕の、選手たちの通し練習の時だけです。
選手は6分間ウォームアップして、一人ずつプログラムを見せていました。これは強制でした。その他の時間は、私達も氷上にいました。
私はほとんどスケート靴の中で生きていました。クリスタルに朝6時に来て、別のグループの小さな子どもたちの個別指導もしていましたので。
(クリスタルでは振付師としても仕事をされていましたが、その時期はどんなプログラムの振付けをしましたか?)
すべてをエテリ・ゲオルギエヴナとともに振り付けていました。あのプログラムはあの具体的な振付師が振り付けたんだ、ということは本当のことではないんですよ。このグループでは、すべてが共同で振付けられます。今も、ダーニャ・グレイヘンガウスはおなじようにしています。エテリ・ゲオルギエヴナと一緒に、何をどうするかを決めているのです。私たちも同じように振付けをしていました。
ただ一つ、まさに私のアイディアだったのは、ジェーニャ・メドヴェデワが初めて世界選手権金メダリストとなったときの音楽です(編注:有名な「聞こえる/聞こえない」)。
そのとき、「ウォリスとエドワード」の映画を見て、サウンドトラックが死ぬほど気に入ったので、それで演技のためにその一部からトラックを作ったのです。みんなすごく気に入ってくれて、結果として2015/16シーズンのメドヴェデワのフリープログラムで使用されました。
最初はこの曲はリプニツカヤが使うことになっていて、プログラムの振付けまで終わっていました。素晴らしいできだったのですが、ユーリャ(リプニツカヤ)が最終的に望まなかったため、みなさんが見ることがなかったのは残念です。けれど、このプログラムは「シンドラーのリスト」よりも良かったと思っています。
(それはすごい・・・)
はい、良いプロでした。
(クリスタルで指導をしている間に、リプニツカヤに対しPCSの側面を好きになるよう教え込んだとおっしゃっていました。つまり、彼女は最初は技術面の方がより研ぎ澄まされていたと。)
ユーリャはスケーティングを嫌っていました。本当に!スケーティングやプログラムの通し練習をさせるのは本当に大変でした。
私自身がアイスダンスの選手だった時、なぜいつも同じものを滑っているのか、なぜいろいろなステップを踏んではいけないのかと、いつもイライラしていました。それで、指導を始めた時には、毎日何か新しいものを持ってくるという目標を立てました。そうしないと、教え子たちは毎回の練習で「なんて日だ、いったいいつ終わるんだ」と思うことでしょう。
練習では目が燃えていてほしかったのです。常に何か新しいもの、新しいステップや新しい組み合わせを滑っていれば、みんな興味を持ちますし、技術の習得が好きになります。
私がクリスタルに来るまでは、そういったスケーティング指導の仕組みはありませんでした。以前はみんなに同じステップを指導していました。私はこの方向性を発展させ、体幹の動きを加えるなどしていきました。もちろん、選手がすでにすべてのステップを習得して、何をしているのかを理解していることが前提ですが。
(その時期、エヴゲニヤ・メドヴェデワにはどんな指導を。)
プログラムやスケーティング、それに大会にも同行していました。その頃はまだ今ほど有名ではありませんでしたが、一般的に、すでに出来上がった選手を指導するよりも、子供と仕事をしてなにか教える方が大変だと思います。頼んだことを簡単に実現してくれるので。
ジェーニャ(メドヴェデワ)は私にとって他にはいない選手です。彼女はつねに掘り下げてくるのです。彼女は何かをさせるということが必要ないだけでなく、すべきことを言い終わる前にもう行ってやっているような感じです。しかも、練習好き中の練習好きです。メドヴェデワのような選手は数少ないでしょう。
彼女がエテリの下を去ったときはとてもがっかりしました。ひどく。トゥトベリゼは彼女のためにすべてをしたのです。できうる限りすべてのことを!
ジェーニャが残っていれば4回転を100%跳べるようになったのではないでしょうか。去った理由は知りません、二人の関係のことなので。
(かつての教え子とも連絡をとっていますか?)
ええ、もちろんです。とはいえ、会うことは稀ですが。それに、とても、正直にとてもエテリにも会いたいと思っています。ですが、うまいこと行きません。彼女のことはいまでもちょっと怖いです。
コーチとしての彼女を尊敬しつつ、少し怖いと思うことに慣れてしまっていて、それが続いています(笑)。しかしお会いしていろいろお話したいです。仕事のことだけではなく。近親者のように感じています。
わたしたちは両方とも辛い人生がありました。彼女は父母を亡くし、私は母と祖母をなくしています。大変でしたが、ここでも似ているところがあります。
(続く)
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