トゥトベリゼ・コーチの元教え子で、カザフスタンのアイスダンス代表となり、トゥトベリゼの下でコーチもしていたヴィクトル・アドニエフのロングインタビューがGazeta.ruに掲載されていましたので、数回(4-5回?)に分けて紹介します。ちょっと時間がかかりそうですがお許しください。今回の第2回は、アドニエフ自身の選手としての経緯です。
(1)トゥトベリゼとの関係
(2)若年化と自身の引退 ← この記事
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
エリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
(続き)
(フィギュアスケートは、その頃にはもうかなりお金のかかる競技だったのですか?)
もちろん、今ほどではありませんが。それに今ほど個人レッスンもなくて、結果も見られませんでした。いまはご存知のとおり、スケーティングでもジャンプでもみんな成長しました。要求もクレイジーで、競争もただただクレイジーになりました。個人練習なしにこの状態まで成長することはできません。単純に不可能です。
いま、成功は練習量と時間にかかっています。そしてもちろん、子供の勝利を願うならそのお金を払うことになります。
また、フィギュアスケートはひどく若年化したことも言いたいと思います。選手は、乱暴な言い方になりますが、15歳で、もう億万長者になり、メディアで有名な人になるのです。こんなことはかつてあったでしょうか?アメリカのタラ・リピンスキーかミシェル・クワンくらいではないでしょうか。ロシアではこんなことが起こったことはありませんでした。
(若年化の原因は。)
それは、こんなジャンプを跳ぶことに大人の身体が耐えられないからです。簡単なことです。
(そのことについてはどう思われますか?)
むしろ良いのではないかと思います。というのも、子どもたちはその後普通に勉強して専門を獲得することができる機会があるからです。可能性はたくさんなります!正直言えば、私もそういった道を選んでいたと思います。18歳までに競技を終え、できる限りすべてのものを獲得し、お金を稼いで、それから自分の教育にそのお金を投資できるのです。すでに選手としては有名となり、すべてを勝ち取った…アリーナ・ザギトワのことですが。
しかし、アリョーナ・コストルナヤとアンナ・シチェルバコワも同じものを達成できると思います。
彼女たちは、実際に別の人生を歩むことができます。年金がもらえるまで、つまり40歳まで滑り続けてショーでお金を稼ぐことなく。成長し続けなくてはいけないのですから、面白くないと思います。
(あなたのキャリアの話に戻りますが、ダンスを初めて少ししてから、カザフスタン代表となりましたが、なぜそうなったのでしょうか?)
正直に言うと、最高に愚かなことでした。ロシア代表として滑ることを夢見ていましたが、そのときはとにかくオリンピックに出たかったのです。それだけです。理由はそれだけです。
カザフスタンでのパートナーについては、ひどく誇張されていました。彼女は深刻な怪我をしていて滑れなかったのです。週に3回、40分の練習を片足でちょっと滑りにきていました。真面目な話です。
私も真面目な男子だったので、別のパートナーを探すようなことはしませんでした。父は「ヴィーチャ(ヴィクトル)、パートナーを探しなさい、なぜ待っているのです?」といつも怒っていました。「パパ、そんなことはできません」と答えていました。とはいえ、そうしていれば今でも滑っていたかもしれませんし、結果も出ていたかもしれません。
(結果として、引退されたと。)
正直に言うと、すべてに飽き飽きしたのです。アスタナとアルマアタで開催された2011年のアジア大会後でした。カザフスタン代表として出場したのです。その時の調子は悪くありませんでした。やっと3カ月ほどまともに練習できたので。良い姿を見せられると思っていましたし、実際最初の練習では良い滑りができて、ジャッジの反応も良かったのですが…その後、私の具合が悪くなってしまったのです。
しかも、とてもひどく!両肺肺炎でした。そして、人生で一番の恐怖が始まったのです。
熱が40℃も出て、感染病棟に入院になり、抗生物質の点滴を受け、3日で7kgも痩せました。衣装もぶかぶかになってしまって!なのに、出場を強制されたのです。
強制されたとしか言いようがありません。「滑れますか?棄権しますか?」とも訊かれず、「ヴィーチャ、出なくちゃいけない」とだけ。
医師も出場してはいけないと注意しました。「彼は耐えられません。しかもパートナーと一緒に滑るだなんて、そんな体力はありません!退院はさせません」と。しかし結果として、やはり出場するようにさせられてしまいました。悪夢だったと、よく思い出します。滑りはひどかったです。プログラムなんてどうやって滑って良いのかもわかりませんでした。朝の練習ではエレメンツやリフトを一つもできず、ただ呼吸をしているだけでした。ステップを踏んでも、すぐに地獄のような咳が始まります。それでも、出場になりました。
ショートダンスでは最後に転倒しました。体力がまったく残っていなかったからです。パートナーをリフトに持ち上げようとしてら、ふたりともリンクに転がっていました。立ち上がるのもやっとでした。
フリーはもうそんなにひどいことにはなりませんでしたが、とはいえ…。しかもその後、エキシも強制されました。病状が悪化し、咳が止まらず、とても恐ろしかったです。
両親は、私が両肺肺炎でしかも大会に出ていると知ってショックを受けていました。コロナにかかって重症化した人が大会に出るようなものです。「頭は大丈夫か?彼は死ぬぞ!?」とみな言うでしょう。
モスクワに戻って、2ヶ月ほど家から出られませんでした。心臓と脚に問題が生じたからです。カザフスタンのコーチは誰も電話をかけてくることも、調子はどうかと訊くこともありませんでした。私がどのような状況にあるかをみな知っていたのに。どれだけひどいことか、おわかりいただけるでしょう。
パートナーは電話をかけてきてくれましたが、私達のマネージャーだった彼女の父親は、私が入院したときも私の両親には伝えることもありませんでした。裁判にすべき事件じゃないかとも思います。そんなことはしてはいけないことです。そしてその後引退を決意しました。
しかし、まだ滑り続けたかったのです。おそらくそれでコーチになったのでしょう。
(続く)
(1)トゥトベリゼとの関係
(2)若年化と自身の引退 ← この記事
(3)リプニツカヤとメドヴェデワ
(4)トルソワの指導とポゴリラヤのプロ
(5)選手はお金/シチェルバコワの追放と復帰
7/29発売 フィギュアスケートLife Extra「Professionals フィギュアスケートを支える人々」 (扶桑社ムック)
「エテリの実際はまったく違う」-トゥトベリゼの元教え子、アドニエフ・コーチのインタビュー
https://www.gazeta.ru/sport/2020/07/13/a_13151275.shtmlエリヴィラ・オンダル / 2020/7/14 / Gazeta.ru
(続き)
コストルナヤとシチェルバコワは、ザギトワと同じものを達成できる
(フィギュアスケートは、その頃にはもうかなりお金のかかる競技だったのですか?)
もちろん、今ほどではありませんが。それに今ほど個人レッスンもなくて、結果も見られませんでした。いまはご存知のとおり、スケーティングでもジャンプでもみんな成長しました。要求もクレイジーで、競争もただただクレイジーになりました。個人練習なしにこの状態まで成長することはできません。単純に不可能です。
いま、成功は練習量と時間にかかっています。そしてもちろん、子供の勝利を願うならそのお金を払うことになります。
また、フィギュアスケートはひどく若年化したことも言いたいと思います。選手は、乱暴な言い方になりますが、15歳で、もう億万長者になり、メディアで有名な人になるのです。こんなことはかつてあったでしょうか?アメリカのタラ・リピンスキーかミシェル・クワンくらいではないでしょうか。ロシアではこんなことが起こったことはありませんでした。
(若年化の原因は。)
それは、こんなジャンプを跳ぶことに大人の身体が耐えられないからです。簡単なことです。
(そのことについてはどう思われますか?)
むしろ良いのではないかと思います。というのも、子どもたちはその後普通に勉強して専門を獲得することができる機会があるからです。可能性はたくさんなります!正直言えば、私もそういった道を選んでいたと思います。18歳までに競技を終え、できる限りすべてのものを獲得し、お金を稼いで、それから自分の教育にそのお金を投資できるのです。すでに選手としては有名となり、すべてを勝ち取った…アリーナ・ザギトワのことですが。
しかし、アリョーナ・コストルナヤとアンナ・シチェルバコワも同じものを達成できると思います。
彼女たちは、実際に別の人生を歩むことができます。年金がもらえるまで、つまり40歳まで滑り続けてショーでお金を稼ぐことなく。成長し続けなくてはいけないのですから、面白くないと思います。
両肺肺炎で熱が40℃なのに、出場を強制された
(あなたのキャリアの話に戻りますが、ダンスを初めて少ししてから、カザフスタン代表となりましたが、なぜそうなったのでしょうか?)
正直に言うと、最高に愚かなことでした。ロシア代表として滑ることを夢見ていましたが、そのときはとにかくオリンピックに出たかったのです。それだけです。理由はそれだけです。
カザフスタンでのパートナーについては、ひどく誇張されていました。彼女は深刻な怪我をしていて滑れなかったのです。週に3回、40分の練習を片足でちょっと滑りにきていました。真面目な話です。
私も真面目な男子だったので、別のパートナーを探すようなことはしませんでした。父は「ヴィーチャ(ヴィクトル)、パートナーを探しなさい、なぜ待っているのです?」といつも怒っていました。「パパ、そんなことはできません」と答えていました。とはいえ、そうしていれば今でも滑っていたかもしれませんし、結果も出ていたかもしれません。
(結果として、引退されたと。)
正直に言うと、すべてに飽き飽きしたのです。アスタナとアルマアタで開催された2011年のアジア大会後でした。カザフスタン代表として出場したのです。その時の調子は悪くありませんでした。やっと3カ月ほどまともに練習できたので。良い姿を見せられると思っていましたし、実際最初の練習では良い滑りができて、ジャッジの反応も良かったのですが…その後、私の具合が悪くなってしまったのです。
しかも、とてもひどく!両肺肺炎でした。そして、人生で一番の恐怖が始まったのです。
熱が40℃も出て、感染病棟に入院になり、抗生物質の点滴を受け、3日で7kgも痩せました。衣装もぶかぶかになってしまって!なのに、出場を強制されたのです。
強制されたとしか言いようがありません。「滑れますか?棄権しますか?」とも訊かれず、「ヴィーチャ、出なくちゃいけない」とだけ。
医師も出場してはいけないと注意しました。「彼は耐えられません。しかもパートナーと一緒に滑るだなんて、そんな体力はありません!退院はさせません」と。しかし結果として、やはり出場するようにさせられてしまいました。悪夢だったと、よく思い出します。滑りはひどかったです。プログラムなんてどうやって滑って良いのかもわかりませんでした。朝の練習ではエレメンツやリフトを一つもできず、ただ呼吸をしているだけでした。ステップを踏んでも、すぐに地獄のような咳が始まります。それでも、出場になりました。
ショートダンスでは最後に転倒しました。体力がまったく残っていなかったからです。パートナーをリフトに持ち上げようとしてら、ふたりともリンクに転がっていました。立ち上がるのもやっとでした。
フリーはもうそんなにひどいことにはなりませんでしたが、とはいえ…。しかもその後、エキシも強制されました。病状が悪化し、咳が止まらず、とても恐ろしかったです。
両親は、私が両肺肺炎でしかも大会に出ていると知ってショックを受けていました。コロナにかかって重症化した人が大会に出るようなものです。「頭は大丈夫か?彼は死ぬぞ!?」とみな言うでしょう。
モスクワに戻って、2ヶ月ほど家から出られませんでした。心臓と脚に問題が生じたからです。カザフスタンのコーチは誰も電話をかけてくることも、調子はどうかと訊くこともありませんでした。私がどのような状況にあるかをみな知っていたのに。どれだけひどいことか、おわかりいただけるでしょう。
パートナーは電話をかけてきてくれましたが、私達のマネージャーだった彼女の父親は、私が入院したときも私の両親には伝えることもありませんでした。裁判にすべき事件じゃないかとも思います。そんなことはしてはいけないことです。そしてその後引退を決意しました。
しかし、まだ滑り続けたかったのです。おそらくそれでコーチになったのでしょう。
(続く)
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