Sport Den Za Dnemが羽生結弦についての論評記事を掲載していたので、前後編で紹介します。前編はソチ・オリンピックまでです。
成功への道のりの最後の一歩は苦しみである - 羽生結弦はいかにキャリア・グランドスラムに至ったか
(前)新記録とソチ・オリンピックまで ← この記事
3/3発売 Ice Jewels(アイスジュエルズ)Vol.13~フィギュアスケート・氷上の宝石~羽生結弦、全日本フィギュアスケート選手権スペシャル(KAZIムック)
成功への道のりの最後の一歩は苦しみである - 羽生結弦はいかにキャリア・グランドスラムに至ったか
https://www.sportsdaily.ru/articles/kak-yudzuru-xanyu-shel-k-karernomu-shlemu
アンナ・コロブコワ / Sport Den Za Dnem / 2021/2/8
その歴史には、血も、涙も、壊れたリンクもあった
世界には説明できないものが数多くあるが、羽生結弦という現象もそのうちの一つだ。彼の演技を一度でも見たことのある人なら誰でも、何を言っているのかを理解してくれるだろう。リオネル・メッシがサッカー界の異星人というのなら、羽生結弦は、メッシよりもさらに遠く未知の惑星から飛んできた、フィギュアスケート界の宇宙人である。
彼自身がフィギュアスケートである、あるいはフィギュアスケートのあるべき姿であると考える人は多い。そして、この言いぶりはそんなに誇張されたものとは思えない。結弦がこの競技において何度新記録を達成したきたのかを考えれば。以下、羽生の功績の一部を紹介する。
・ショートプログラムで100点を獲得した初めての選手
・4Loを成功した初めての選手
・4T+3Aを成功した初めての選手
・フリープログラムの後半に3本の4回転ジャンプを成功した初めての選手
・4T+1Eu+3Fを成功した初めての選手
・GPFを4年連続で優勝した初めての選手
・キャリア・グランドスラムを達成した初めての男子シングル選手
・66年ぶりにオリンピック2大会連続優勝
羽生はSNSにはおらず、記者会見のほかにインタビューを受けることは稀であるが、「Sport Den Za Dnem」は彼の歴史における有名な一部分すべてを一つにまとめようとした。その中には、幸せの瞬間も、絶望の瞬間もある。
羽生がフィギュアスケートを始めたのは4歳のときだったが、勝つためだとか、功績を残すために始めたわけではなかった。この男の子は「喘息」と診断され、スポーツをするのが健康に良い影響を与えると医師が言ったからだ。結弦の姉がスケートをしていたため、どのスポーツをするのかという問題は特に起こらず、彼も姉のさやが滑っていたリンクへと行くことになった。
最初の練習で羽生はすでに両親だけでなくコーチを驚かすことになった。数十のレッスンが必要なことを最初からできたからである。彼には潜在力が見いだされたが、それから結弦はコーチの指導を受けるだけでなく、自分自身で技術を磨いてきた。世界最高のフィギュアスケーターの演技の録画を探し、綿密に詳細を分析し学習した。自分の見たことや進歩について書く個別のノートも作った。
2010年、羽生はジュニア世界選手権を制したが、2011年にはオリンピック王者とならずに引退する可能性もあった。彼の出身である仙台でひどい地震が起こった。しかも、練習中にそれは始まった。
結弦はいまでもその日ことを詳細に覚えている。リンクが揺れ、貸靴の棚が倒れ、羽生は叫び、泣きながらリンクに一緒にいた末永巧に掴まっていた。彼らは四つん這いで這って避難し、アスファルトをガードされていないブレードのままで歩いたので一瞬にして壊れてしまった。結弦はいつしかブーツを脱ぎ、脱出したときにはブーツを手に持って靴も履かずに雪の上でしばらく立っていたという。
天井とリンクの下には水道管が通っていたが、壊れてしまい、崩れたリンクの建物は水浸しになった。最終的にリンクは撤去されたが、事実上撤去するものももうなかった。
羽生は4日間避難所で過ごした。何もせず、ただ天井を眺めて、フィギュアスケートを続ける意味があるのかと考えていた。こんな大きな、千年に一度の地震に自分が遭ったのが、なぜ崩れたリンクの中だったのか、結弦にはわからなかった。、もしかすると、フィギュアスケートをやめて、なにか別のこと、例えばボランティアをすべきなのか、というしるしかもしれないと。
それでも羽生は10日後にリンクに戻った。かつてのコーチである都築章一郎が住んでいた神奈川県東部へと移った。そんなに時間は経っていないように思えるが、この1週半で結弦は見た目の幅が1/4ほど縮んだようだった。徐々に体重を戻し、トリプルアクセルを戻すことはできたが、4回転ジャンプを回り切る力は足りなかった。
日本で開催されるはずの世界選手権は、緊急でモスクワで移されることとなった。ジュニア時代に羽生に負けていたロシアのアルトゥル・ガチンスキーが、デビューとなる世界選手権で3位となり、これに羽生は驚いた。ガチンスキーは両プログラムで4回転ジャンプを降りたが、結弦はフリーを見たあと眠ることができなかった。「彼はすべてのジャンプを素晴らしく降りたのに、なぜ自分は4回転一つでさえうまく跳べないのか」と。これが羽生にとってのモチベーションとなった。
1年後、シニアの世界選手権にデビューし銅メダルとなり、その後オリンピックに向けてブライアン・オーサーのもとで準備をするためにカナダへと移った。結弦は、現行のグランプリ・ファイナルの勝者としてソチ・オリンピックに向かったが、明らかな優勝候補だとは考えられていなかった。2度のオリンピック金メダリストであるエヴゲニー・プルシェンコが棄権をした後でも、他の優勝候補として3度の世界選手権金メダリストであるパトリック・ちゃんがおり、羽生は彼と優勝を目指して争った。フリーでは両選手ともミスをしたが、技術点で結弦が上回った。彼は日本の男子シングル史上初めてのオリンピック金メダリストとなり、1ヶ月後には世界選手権の金メダルも獲得した。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿