引退したアリサ・ロスコのロングインタビューがMatch TVに掲載されていましたので、4回に分けて紹介します。ロシアのスケーターの人生について、率直な意見が語られていてとても興味深いです。
第1回目は移籍までのキャリアについてです。各記事のサブタイトルは管理人が付けていますが、変わるかもしれません。
(2)2ヶ月で20cm背が伸びたら腕も脚も言うことを聞かない
(3)アイスダンス挑戦と引退/ザギトワとの思い出
(4)ただ滑ること、技術を向上させることが好きだった
9/19発売 羽生結弦 2019-2020 フィギュアスケートシーズンカレンダー 壁掛け版 + 卓上版 2冊セット
第1回目は移籍までのキャリアについてです。各記事のサブタイトルは管理人が付けていますが、変わるかもしれません。
アリサ・ロスコ - ミーシンとの別れ、トゥトベリゼの下での練習、ザギトワとの交流について。「Match TV」ロングインタビュー
(1)セカンド3Tはトゥトベリゼに移籍して初めて跳べた ← この記事(2)2ヶ月で20cm背が伸びたら腕も脚も言うことを聞かない
(3)アイスダンス挑戦と引退/ザギトワとの思い出
(4)ただ滑ること、技術を向上させることが好きだった
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アリサ・ロスコ - ミーシンとの別れ、トゥトベリゼの下での練習、ザギトワとの交流について。「Match TV」ロングインタビュー
アナスタシヤ・パニナ / 2019/8/25 / Match TV
不注意な一歩がどんな結果を起こしうるか、なぜ彼女はトゥトベリゼのチームに残らなかったのか、なぜアイスダンスを続けなかったのか、そしてどのように選手生活との別れに耐えたのか。
アリサ・ロスコはイジェフスクで生まれ、そこでフィギュアスケートを始め、数年間アリーナ・ザギトワと同じグループで練習していた。10歳のとき、合宿でアレクセイ・ミーシンが彼女を見出し、サンクト・ペテルブルクで自分の下で滑るよう招待した。
15歳のとき、もうすでにミーシンの教え子ではなかったが、ありさは3Lz+3Loのコンビネーションを跳び、3Aと4Sを練習し、素晴らしいスピンを有していた。傑出したレベルのスピード、回転軸、そしてポジションの美しさを持った。それに加え、彼女の演技を見るのはいつも気持ちの良いものだった。普通じゃないプログラムやしなかやさ、そして音楽の最初の瞬間から最後の瞬間までイメージを維持する意志のために。
そういった長所を持つロスコは、現在のロシア代表と比べても引けを取るものではなかった。しかし、選手としての運命は独自の道を示した。不注意な一歩がどんな結果を起こしうるか、なぜ彼女はトゥトベリゼのチームに残らなかったのか、なぜアイスダンスを続けなかったのか、そしてどのように選手生活との別れに耐えたのか、アリサが「Match TV」のロングインタビューで答える。
「セカンドトウの普通のコンビネーションは、トゥトベリゼのグループで初めて跳べるようになった」
(インタビューの準備として、あなたの演技は見つけられるものはすべて見直しました。見て一番感じた思いは、あなたがもう選手ではないという残念さです。あなたはこのことは残念だと思っていませんか?)
最初は、起こったことすべてについて、反対に楽になりました。いつも緊張してたり、不安だったり、頭の中は練習でいっぱいで勉強のことまでいきませんでした。いま私はコーチとして働いています。また、リンクの支配人が、子供たちに対してモチベーションになるように私の演技の映像を流すこともあります。子供たちと一緒に、長いこと見ていなかった自分の演技を久しぶりに見ました。まさにそのときに、引退したことを強く後悔しました。
(現在、ウドムルトからは女子シングルの世界のトップに2人のスケーターがいます。イジェフスクのアリーナ・ザギトワとグラソフのエリザヴェータ・トゥクタムィシェワです。あなたもイジェフスク生まれでトップレベルにまで上ることができました。才能ある子供たちが育つ何か特別な場所なんでしょうか。)
コーチたちの功績が大きいと思います。例えば、私たちはよくサンクトペテルブルクの講習に連れて行ってもらいました。そこではもう努力した人が突破する世界です。
(練習のためにペテルブルクに引っ越したのは何歳のときでしたか?)
10-11歳頃です。私と母が引っ越して、父はお金を稼ぐためにイジェフスクに残っていましたが、その後、父も引っ越してきました。
初めはアレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシンのイタリア合宿に行って、そこでミーシンに見いだされて自分の下で練習するよう招待されました。私たちはスポンサーを探したり、ローンを借りたり、自動車を売ったりしなくてはなりませんでしたが、最初のうちはそれでも部屋を借りていました。「ユビレイニー」アリーナが改修中で、いつも練習できる場所がなかったので、あちこち行ったりきたりしていました。父が引っ越してくるときに、イジェフスクの4LDKを売ってサンクトペテルブルクで1LDKを買いました。
おそらく、今になってやっとこの街に慣れたと言えるようになりました。最初のうちは、毎年夏休みにイジェフスクに行くたびに、戻らないでここに残ろうと母に言っていました。辛かったのです。
(そのためにミーシンのグループでの練習を止めてもよいと思っていたのですか?)
ええ、私は小都市の方が自分に合っていると思います。それに加え、友人も、自分の心にとって心地よい場所もあそこに残っていました。
(難しいコンビネーションであるルッツループはいつ習い始めましたか?)
私が初めて跳んだ三回転ジャンプはループでした。また、セカンドループのコンビネーションの方がいつも楽にできました。普通のセカンドトウループのコンビネーションは、トゥトベリゼのグループに入って初めて跳べるようになりました。サンクトペテルブルクでもすでにループループのコンビネーションが安定していましたが、プログラムの難度を上げるためにルッツとフリップを入れることコーチは提案していました。ただ、いつもルッツのエッジエラーがあったので、リスクはありました。
(エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)の下で一定期間練習できたのはどうしてでしょうか。移籍についての公式情報はまったくなかったのですが。)
自分自身でもその状況を最後までは理解できていません。そのとき、その問題は父を通じて連盟のレベルで話し合われていました。後になって父が話してくれたのは、モスクワが私をサンクトペテルブルクに戻すよう、サンクトペテルブルクからモスクワに命令が来たとのことでした。その問題は1週間も続いて、私たちはいろいろなところに出向いて問題を解決しようとしました。モスクワのエテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)のグループに残りたかったのです。しかし指導部は紛争を避けるためにサンクトペテルブルクに戻ることに固執しました。
(いったいどうしてそんなことがあり得るのでしょうか?多くの選手がコーチやクラブを変え、別の街や国に行ったり、国籍を変えたりさえしています。なぜあなたのことは手放せなかったのでしょうか。)
そうなんですよ。選手を失いたくないと言われただけです。
(いったいなぜコーチを変えるという考えが出てきたのでしょうか。)
ジュニアグランプリの後、最近まったく進歩がないとわかりました。もう1年も同じところにいるのだから、何かを徹底的に変えないといけないと。それに、グループ全体が参加したクルシュヴェル合宿に私は呼ばれませんでした。選手の中で、事実上私だけが一人サンクトペテルブルクに残りました。すごく悔しかったです。それで、トゥトベリゼの下に行ってみようと両親と一緒に決断しました。
(合宿にはなぜ呼ばれなかったのでしょうか。)
理由は説明されませんでした。
(続く)
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