引退を表明したセルゲイ・ヴォロノフは、自身の経歴についてのインタビューに答えていましたので、(たぶん)3回に分けて紹介します。第1回はバンクーバー直前までです。
フィギュアスケートLife Extra「男子シングル列伝」
セルゲイ・ヴォロノフ:いまのフィギュアスケートで、32歳まで滑りきれたのは幸せだった
https://tass.ru/interviews/9457871
ヴェロニカ・ソヴェトワ / TASS / 2020/9/16
伝統となったロシア代表チームのオープン・テストスケートというシーズンの公式なスタートの前日、欧州選手権銀メダリスト・銅メダリストであるセルゲイ・ヴォロノフが、引退を表明した。ヴォロノフが大会出場を辞める決断をしたのは、32歳 - 現代のフィギュアスケートとしては、控えめに言っても突出した年齢である。タスのインタビューでヴォロノフは、この決断を後押ししたものや、将来の計画、3度のオリンピックに出場できなかったことをなぜ「資産登録」したのか、そしてそれが将来においてどのような手助けとなるのかについて語った。
(セルゲイ、なぜこんな静かに、控えめに決断をされたのでしょうか?代表チームのテストスケートの前日という、注意がすべてもう朝からそれだけに集中するとわかっている日に、引退について表明するとは。「スパシーバ、サンキュー、ありがとう!!!私の選手としての長い道のりは終点に至った」と。そして、これだけでした。)
正直に言えば、そういった考慮もありました。一方で、私のことを敬意をもって選手生活から送り出さなければならないものでしょうか?まあ、ロシアでは壮大な送別会は慣れたものでしょうが、今回は喪に服す必要もありません。意図的な決断でした。私は15歳とか17歳で引退するわけではありませんし、怪我のせいで若いうちに引退するわけでもありません。やりたかったことはすべて、そして自分の力の限りすべてをやり終えました。私のキャリアにはたくさんの限界がありましたが、この螺旋は上昇しながら終了しました。このことは、あらゆる選手が夢見ることでしょう。
(とはいえ、フィギュアスケートにおける長生きは、いずれにせよ、なにかもう少し大々的ではなかったでしょうか。)
ええ、本当の長生きというのはそんなに多くないと記憶しています。ロシアでは、1人だけです。
(プルシェンコですか?)
その名前を挙げたのは私ではなく、あなたですね。他に誰か挙げられますか?
(あなたのような勤続年数を持つ人はいないのではないでしょうか。簡単に昔を振り返りましょう。モスクワ生まれということですね。)
モスクワの、アルバート通りの第2産院です。1987年に、いまはもうない国であるソ連に生まれました。あなたと私の共通の祖国です。何度も話していることですが、フィギュアスケートはまったく偶然に始めました。母の友人が娘にフィギュアスケートをやらせていたのです。その頃は、親たちの世代はみなロドニナやゴルデーワ/グリンコフ組を敬愛していました。憧れの選手でした。その友人が母に、セリョージャ(ヴォロノフ)にもフィギュアスケートをやらせるよう勧めたのです。母は、フィギュアスケートは男のスポーツではないと思っていたようで、最初は健康のために水泳をやらせたかったようですが、「健康のための散歩」仲間としてフィギュアスケートに送り出すことに同意しました。このようにして、私は「健康のために」スケートをしていました。
(健康のために?)
まあ、このフィギュアスケートという麻薬が私のことをどれだけ長く引っ張り込むのかなんて、誰がわかっていたでしょうか。
(あなたの最初のコーチはラファエル・アルチュニアンでしたね。)
そういうわけではありません。アルチュニアンはコーチでしたが、最初はナリネ・ペトロヴナ、ということになりました。彼女が私をスケート靴の上で立たせてくれました。ラファエル・ウラジーミロヴィチ(アルチュニアン)のところに行ったのは11歳のときでしたが、彼は1年後に仕事のためにアメリカへと渡りました。モスクワではコーチは探しませんでした。その頃は、エフゲニー・プルシェンコが輝きを始めていたサンクトペテルブルクに行きたかったのです。ペテルブルクの技術は非常に古典的で正しいものだといつも思っていました。バレエとおなじようなことです。モスクワの技術があり、またペテルブルクも、その学術性と品格を持つ技術があります。そして、私はまさにそちらを常に目指していました。ジャンプを、きらめきのあるジャンプを跳ぶことを。
(その頃、コーチになったばかりのアレクセイ・ウルマノフの指導を受けることは怖くはなかったのでしょうか?)
まず、アレクセイ・エヴゲニエヴィチ(ウルマノフ)はオリンピック王者で、私は子供の頃にリレハンメルでの勝利を見ていましたし、彼のエキシの演技を今のことのように覚えています。そして、テレビの中の憧れの選手が、自分のコーチとなるのは、まだ若い男子だった自分にとって、大きなインスピレーションとなり、奮い立たせるものでした。フェンスの向こうにカリスマ的な有名なコーチがいるのは、大きな助けとなるものです。
(私たちの世代の多くにとって、ウルマノフは常に「白馬に乗った王子」であり続けていますね。)
均斉の取れた、貴族風なところ、すべてが彼のプラスです。
(しかしその後、痛みを持つ箇所が出てきてしまいました。)
私は自分のキャリアを、2013年までと2013年以降に分けています。そうですね、痛いところはありました。しかしそれだけでなく、私の若い頃の愚かさと、どこか細部まで仕上げ切れないところもありました。いまは、痛みのある箇所について言うのが流行っています。もちろん、私には怪我もありました。競技ですから。とはいえ、競技会での失敗は、私自身の練習不足の結果でもありました。ウルマノフとは6年間指導を受け、ジュニアとシニアでも最初の成功は、まさに彼との時代にありました。
(そしてまさにその頃、あなた方お二人は、怠惰も含め批判の嵐に耐えざるをえませんでした。)
そして、いまそういった人たちはどこに行ってしまったのでしょうか?批判に対する一番の反論は、リンクに入って実際に証明することです。そんなにすぐにそれができなかったとしても。それに、何よりもまず私は自分に対し、何人かの英雄が私について書いていたような怠け者ではないと証明しました。
(続く)
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