引退を表明したセルゲイ・ヴォロノフは、自身の経歴についてのインタビューに答えていましたので、3回に分けて紹介します。第2回の今回は、バンクーバーから平昌までです。
セルゲイ・ヴォロノフ:いまのフィギュアスケートで、32歳まで滑りきれたのは幸せだった
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セルゲイ・ヴォロノフ:いまのフィギュアスケートで、32歳まで滑りきれたのは幸せだった
https://tass.ru/interviews/9457871
ヴェロニカ・ソヴェトワ / TASS / 2020/9/16
(続き)
(その頃、アンドレイ・ルタイと2人で、バンクーバー・オリンピックのロシアの枠を獲得してくれました。)
正確に行きましょう。順位点の合計でその枠は確保されました。しかし、アンドレイはそのロサンゼルスでの世界選手権で10位、私は13位でした。物事は正しい名前で呼びましょう。
(しかし、それはいわば計算表上の得点で、枠の獲得は、枠の獲得です。しかし、あなたがご自身に対しこれを功績と見なしていないところが好きです。)
ただ、それがどんな感じだったのかをよく覚えているだけです。そのとき、ショートはとても良い滑りができたのですが、フリーはそうではありませんでした。ですので、どんな功績と言えるのでしょうか。アレクセイ・エヴゲニエヴィチの後、ニコライ・モロゾフの下で練習をしましたが、彼にも多くのことについて感謝しています。スケーティング面やステップ面でたくさんのことを教え込んでくれました。また、自己規律の面もそうです。彼は多くのことについて疲れきらないことを教えてくれました。特に、彼のところで私はより機動的となり、よりフットワークが軽くなりました。アメリカで滑って、次の日にモスクワにいて、1週間後には日本にいたりするのです。プロなら、時差に関係なく良い演技ができる能力を持たなくてはなりません。彼は、生活態度におけるある意味での保守性を壊してくれました。
(ある具体的な時間にどの国にニコライがいるのかを正確に当てることは絶対に不可能だと、自分の経験から言えますね。本物のコスモポリタンです。)
本当にすごいことです。
(2013年に、エテリ・ゲオルギエヴナ・トゥトベリゼの指導を受けることになります。覚えている限りでは、彼女はあなたまで、大きな経歴を持つ選手を採ったことはありませんでした。)
そのときに電話で、彼女から「やってみましょう。でも、たくさん練習しなければなりません。明日練習に来てください」と言われました。そして、彼女とかのjのチームのおかげで、私は初めての欧州選手権やグランプリ大会のメダルを獲得できたのです。彼女のチームが、どうやって自分に打ち勝つことができるのかを私に教えてくれました。そのことについて、私は本当に感謝しています。彼女と、彼女のチームに対して。その時のスケート連盟幹部が私に対し「フィギュアスケートにとってあなたはもう年を取っているのだから、将来について考えなさい」と言っていたのに、彼女は私を信じてくれました。これは、27・8歳でも、まだ限界に達していないと、チームが自分を信じてくれたことの明らかな例となりました。
(その後はインナ・ゲルマノヴナ・ゴンチャレンコでしたね。)
まさに彼女の下で、怪我をした後でやって普通のトリプルルッツが跳べるようになりました。彼女には多大なる感謝です。彼女がCSKAを去った後、私はエレーナ・ゲルマノヴナ・ブヤノワの下に残りました。彼女が私に素晴らしい機会を与えてくれたことにもとても感謝しています。そしてもちろん、CSKAでの私の道のりでずっと私とともにいてくれたアンナ・ワレリエヴナ・ビリビナにも感謝したいです。そして、タチヤナ・アナトリエヴナ・タラソワにも。彼女は私の選手生活全体を通じずっとそばにいてくれました。彼女の経験には何物にも代えがたいです。
(ソチ・オリンピックに出られなかったことをどのように耐えたのでしょうか。)
いま、何を責められるでしょうか?難しい状況で、枠が1枠でした。そのとき、ロシアの偉大なエフゲニー・プルシェンコが滑っていました。あのロシア選手権とその後の欧州選手権、あの目まぐるしい状況をみんな覚えているでしょう。起こったことはすべて、起こったがままに起こったもので、歴史に「もしも」はありません。起こって、過ぎ去るのみです。そう、私は出られませんでした。私が3度のオリンピックすべてに出られなくて、それが私の主な「功績」であると書かれているのをみると、もちろん読んでいて笑ってしまいます。それについてはどうでも良いです、自分の「資産」に登録しておきます。このことからは、人生でもっと自己実現したいと思うだけです。タイミングよく、しかも断末魔の苦しみなくページを閉じる能力が必要です。私たちはみな永遠ではなく、競技も永遠ではありません。新しい人々、新しいヒーローがやってきます。ちょうどヒーローとヒロインが変わりつつあるいま、私は、32歳まで滑りきれて幸せを感じています。
(成績も残して。)
良かれ悪かれ、成績を残してきました。尻込みはしませんでした。30歳で、もうCSKAにいるときでしたが、人生で初めてグランプリ大会で優勝しました。私のキャリアには、たくさんの素晴らしいことがありました。
(2つ前のオリンピック・サイクルに向かうことを決められた際、あなたは平昌オリンピック出場という課題をたててはいないとおっしゃいました。)
ええ、大きく宣言するのと実際にするのは違うことですから。それぞれにそれぞれの目標があり、私の目標はオリンピック出場ではありませんでした。実際の事物で考えましょう。認められるのは、1位、2位、3位のみです。出張費をもらって演技をするだけでは、その意味はどこに?そういった夢は私にはありませんでした。ロシア女子が出るときに、もちろん異常事態がなければメダルが取れるとみんな知っていました。ロシアを代表するというのは凄いことですが、各大会での私の課題は、メダルを獲るということでした。
(セルゲイ、あなたにとって大会がどれだけ辛いものであったとしても、あなたがミックスゾーンの柵を避けて通ったということは記憶にありません。ほぼ常に、記者と対面する体力と時間を見つけてくれました。)
それは、あなた方にはあなた方の仕事があって、私たちには私たちの仕事があるからです。私がなにか上手く行かなかったといっても、それであなたのどこが悪いのでしょうか?ひどい滑りをしたのは自分であって、記者たちもコーチたちもファンたちも、自分を邪魔したわけではないのです。そして、フラッシュ・インタビューは、ちょうど自分を緊張したまま留めてくれる効果があります。スケート靴と衣装をゴミ箱に捨てたくても、ショックを抑えて質問に立派に答えなくてはなりません。このことは、競技以外でも重要です。状況は様々です。もちろん、これに加えて、教育にも多くのことが依拠しています。そう、もちろん、調子を狂わせよう、煽動しようとする記者もいましたが、私はそういったときは心の中で、私の仕事は私に幸せを与えてくれているけれど、彼の仕事は彼に幸せをもたらすはずはない、と思っていました。
(続く)
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