引退を表明したエレーナ・ラジオノワがR-Sportのロングインタビューに答えていましたので、全5回で紹介していきます。第2回は、コーチの変更の決意についてです。
「私は全力を絞りきった」-エレーナ・ラジオノワの率直なインタビュー
(2)経歴とコーチ ← この記事
10/3発売 エンスカイ 宇野昌磨 2021年 カレンダー 卓上 CL-553 ※特典生写真入り※
「私は全力を絞りきった」-エレーナ・ラジオノワの率直なインタビュー
https://rsport.ria.ru/20200922/radionova-1577567244.html
アナトリー・サモフヴァロフ / R-Sport / 2020/9/22
(続き)
(そういったチームを得るためにブヤノワの下に移籍しなければならなかったのですか?)
まったく違います。自分でチームを創ろうとすることもできますし、私が移籍したのは別の理由です。
インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)には、彼女が私のためにしてくれたことについて感謝しています。彼女が選手の育成を続けていたならば、すべてがうまくいったことでしょう。私の指導の経験があり、そこから結果を出したはずですから。いずれにせよ、子供が小さいときは、必要だと思うように行動することができます。何かをさせたいとおもったら、子供に向かって叫べば、彼は恐怖からそれをするのです。彼が成長したら、彼の精神面を学ばなくてはなりません。「私」というものが現れる難しい思春期の年齢では、別なアプローチが必要です。そういったアプローチがないと、混乱や不理解、ヒステリーが起きます。そういったとき、私を救ってくれたのはタチヤナ・アナトリエヴナ・タラソワでした。彼女が来ると、練習しないなんてことはできなませんでした。それは、彼女のことをみな恐れているからではありません。ぜーんぜん違います。タラソワには想像できないほどのエネルギーがあって、それをみんなと分け合う用意ができています。タラソワはインスピレーションを与えてくれました。私が問題すべてを忘れて、氷上を駆け巡ってどんな量の練習でもこなすために、彼女が一言発するだけで十分でした。彼女が近寄ってくれると、私の目は燃えて、もっともっともっと練習したい、と思えました。
(ゴンチャレンコはあなたとの対話法を変えなかったのでしょうか。)
問題は話し方にあるのではありません。彼女にとって、私の相手をするのがただ大変だっただけです。彼女は、私が引き受けることのできないような負荷の計画を作っていました。もう子供ではないのだから、闇雲にコーチが求めるものすべてをやっていたら、ただ身体を悪くするだけだと、頭ではわかっていました。やはりジュニアにはジュニアの負荷テンポがあって、シニアは違うのです。
(彼女には直接言えたのですか?)
私はコーチを完全に信頼していましたが、あの成長期に、それに対する支援というものが十分ではありませんでした。インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)は保守的なアプローチの方で、「これをやりなさい」と言う形です。私は、自分のことを信じてくれることを夢見ていました。おわかりいただきたいのですが、両親はいつも私のことを信じてくれていましたし、インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)にも、私のことを信じてくれるような人であってほしかったのです。しかしそれは感じられず、私にはそのことが足りませんでした。コーチが「行ってこれをやりなさい。そうじゃなくちゃいけないから」と言うことがありましたが、私はその準備ができていないとわかっていました。それでコーチは、私が怠けている、さぼっている、練習したくないがためにあらゆる作り話を考え出す、と思ったようです。月並みですが、私たちには信頼の対話が不足していました。しかし、です。インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)がいなければ、私はこんな成績には到達できなかったでしょう。
(別なコーチとでも?)
彼女が私のことを見つけてくれた、というところなのです。本当に小さな頃に。そして、私にたくさんの力を費やしてくれました。しかし時は経ち、自分の前に行き止まりが見えてしまいました。私にとってこの大切な人と一緒に練習したかったのですが、私には出口はたった一つ、去ることだけだとわかっていました。
(そういったときコーチは、あなたが単純に誘い出されていると考えるとは思われませんか?)
もちろんです!そのとおりでした。そういうふうに思われました。ロシアではここが問題です。別なコーチのところに移ると、裏切り者になります。恩知らずだと。ただ、私はインナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)と一緒に限界に達したとは思っていません。いえ、彼女とならもっと高みに到達できたはずです。対立は相互関係のレベルで起こったことであって、コーチのレベルのせいではありません。人が「コーチは私に全力を尽くしてくれたのに、私はコーチから去った」という告白を、私は懐疑的に受け止めています。普通の練習ができていれば何も変える必要はないと思います。最善はしばしば善の敵になります。
「そのとき、私は本当に裏切り者のように映る、と思ってた」
(しかし、成長の問題は、ブヤノワ・グループでも対処できませんでした。)
エレーナ・ゲルマノヴナ(ブヤノワ)の下での練習が、ぼやけたものになってしまったのは残念です。練習自体は十分素晴らしいものができて、コーチとの関係も良いものが出来上がり、いまでも一緒にいます。
(ブヤノワは、あなたとは親友になったと話しています。)
そのとおりです。人生の問題についても相談していて、彼女の助言をよく求めています。彼女は、私をグループに入れてほしいという願いに対応してくれました。もちろん、私は誘い出されたと言われていましたが、まったく馬鹿げた話です。彼女が電話に出てくれるかどうかもわからないまま、私自身が彼女に電話したのですから。私たちは同じリンクで練習をしていましたが、彼女は私にむっとすることがときどきありました。私は気の強い子で、無礼なことをしていたのです。彼女の近くを通り過ぎるときに横目でみたりしたかもしれません。彼女は権威のある人だとわかっていましたし、私にとってはそういう人だったのです。しかし、小さな頃の私は、その価値はわかっていても、ときどき傲慢な態度をとっていました。それはいいとして、彼女に電話したら、電話を受けてくれて、私は「エレーナ・ゲルマノヴナ(ブヤノワ)、レーナ・ラジオノワです」と言いました。彼女は「え、えっ?!」といった感じで。彼女の声には、作り物ではない驚きがありました。私はなんとか言葉を選んで、「私を採用してほしいのですが…」と言ったことを覚えています。彼女は「え?驚きました」と答えました。そのときはまだインナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)とはお別れをしていませんでした。新しいグループで自分が必要とされるか、確信を持てなかったので。同意を得て、その後、すでにぎこちない関係となっていたインナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)の指導の下で国別対抗戦を滑りきりました。その困難なときに支えてくれた(CSKAコーチの)サーシャ・ウスペンスキーに感謝します。戻ってきて、インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)のところに行って、移籍の決断について伝えました。話すのはとても辛かったです。
(苦しみ抜いた決断だったのですか?)
意識的なものでした。そこまでにはとても長い時間がかかりました。けれど、たぶん苦しみ抜いたものでもあります。私は人に愛着を感じるものですから、そのときは、すべて理由があるにせよ、私は本当に裏切り者のように映るだろうと思いました。「そんなこと、だめに決まってる!」と、いつも自分の内なる声が聞こえていました。「インナ・ゲルマノヴナ(ゴンチャレンコ)はどう思うだろう…?」「私が本当に小さな頃から一緒だったのに…」と。移籍を考えてはいましたが、この思いが私の心を引っ掻いて、実行に移す決断をすることが長い間できずにいました。
(理性が移籍を教えてくれていたのなら、それ以外はないのではないのでしょうか。)
一面では良い関係を維持することに天秤が傾いて、もう一方では結果を出すことに天秤が傾いていました。私は後者を選びました。もちろん、誰も保証なんてしてくれませんが、希望はありました。良い関係を選ぶことは、私のキャリアの崩壊を早めるだけでした。いずれにせよ、わかったのです。他人のことを考えていては、競技の中の自分を失ってしまうと。ある賢明な方が言ってくれました。アスリートは誰でもエゴイストでなければならないと。それで、私もあの決定的瞬間にエゴを発揮したのです。
(しかし、選手生活での幸せはそれ以上見つかりませんでした。)
エレーナ・ゲルマノヴナ(ブヤノワ)の下での最初の合宿は素晴らしいものになり、練習でループ・オイラー・フリップ、ルッツ・ループ、ルッツ・トウループ・トウループをまとめていました。あらゆる大会で金メダルを目指すのにはそれで十分でした。けれど、大会ではあたかも自分がすり替わってしまったようでした。あれはなんだったのだろうといまになって思うのですが、理解できません。それまではいつも大会ではいつも良い演技をする能力があったのですが、あたかもそのやり方を忘れてしまったようでした。
(続く)
0 件のコメント:
コメントを投稿