引退したアリサ・ロスコのロングインタビューがMatch TVに掲載されていましたので、4回に分けて紹介します。ロシアのスケーターの人生について、率直な意見が語られていてとても興味深いです。
第4回の最終回は、コーチとしての仕事や、数年ぶりに戻った学校、今後の夢について語っています。
(2)2ヶ月で20cm背が伸びたら腕も脚も言うことを聞かない
(3)アイスダンス挑戦と引退/ザギトワとの思い出
(4)ただ滑ること、技術を向上させることが好きだった ← この記事
9/11発売 フィギュアスケートLife Extra ~Ice Show in Japan 2019~ (扶桑社ムック)
第4回の最終回は、コーチとしての仕事や、数年ぶりに戻った学校、今後の夢について語っています。
アリサ・ロスコ - ミーシンとの別れ、トゥトベリゼの下での練習、ザギトワとの交流について。「Match TV」ロングインタビュー
(1)セカンド3Tはトゥトベリゼに移籍して初めて跳べた(2)2ヶ月で20cm背が伸びたら腕も脚も言うことを聞かない
(3)アイスダンス挑戦と引退/ザギトワとの思い出
(4)ただ滑ること、技術を向上させることが好きだった ← この記事
9/11発売 フィギュアスケートLife Extra ~Ice Show in Japan 2019~ (扶桑社ムック)
アリサ・ロスコ - ミーシンとの別れ、トゥトベリゼの下での練習、ザギトワとの交流について。「Match TV」ロングインタビュー
アナスタシヤ・パニナ / 2019/8/25 / Match TV
(続き)
「選手生活でオリンピックを夢見たことはない。本当に。ただ滑り、自分の脳力を向上させるのが好きだった」
(コーチとしての仕事は以前からお考えだったのですか?)
こんなに早く指導を始めることは予定していませんでしたが、指導は大好きです。子供たちと理解し合うのは楽です。ちゃんと話せれば管理はできます。
最初は4-6歳の年少グループを担当しました。年少グループの主任コーチが、並行して氷上バレエを指導していたので、彼に代わることになったのです。その後タタルスタン合宿に誘われたのですが、子供たちの参加人数が足りなくてキャンセルになりました。主任コーチにまた指導に参加できると電話したのですが、年少グループにはすでに別のコーチがついてしまっていたので、私には年上のグループのコーチのアシスタントになるよう提案されました。1ヶ月ほど彼らを合宿で指導して、今は年長グループのコーチになりました。
(子供たちには3回転ジャンプを教えていますか?)
はい、ダブルアクセルが跳べて、初めて3回戦に挑戦する女の子が2人、中国から来ていました。彼女たちに3Tと3Sを教えました。
(自分で跳ぶより説明する方が簡単ですか?)
もちろん自分で跳ぶ方が簡単です。それに加え、言葉の壁もありますし。彼女たちは英語ができませんので、ロシア語・中国語の一般通訳が同行してくれているのですが、スケート用語をまったく知らなかったのです。練習の半分は、彼女たちに私の言っていることを理解してもらうことだけに費やされました。
ロシアの子どもたちも頭に何かを入れるのは難しいですが、それはもう言葉の壁のせいではありません。子供たちは、自分で理解して感じようとしなければなりません。そうやって初めてできるようになるのです。何時間も同じことを繰り返し言っても、頑張る子もいますが、脇に外れて、すべきことではなく、自分の好きなようにやる子もいます。
(大会に教え子を連れて行くところまで行きましたか?)
年少の子供たちだけです。アカデミーで大会があって、5歳の子供たちを連れていきました。年長グループよりも単純です。緊張しませんし、パニックになりません。ただ楽しく、笑いながら滑ってくれます。
率直に言うと、小さい子供には、まったくなにも必要ないのです(笑)。愉快に遊ぶためにリンクに来ていますから。しかし、ご両親は…スクール内での競争に熱心です。何もかもが、どの子が上なのかをはっきりさせるために危うく喧嘩になりそうなくらいになります。
(つまり、そんな初歩の段階でも争いがあると。)
すでにそうです。フィギュアスケートは進歩し、若年化が進んでいますから、結果を出さなくてはならない最初の年齢は低くなりました。
(学校に戻るのは大変でしたか?)
最初はとても大変でした。学習プログラムにひどく遅れをとっていたので、初歩的な分数でさえもうまくできませんでした。でも、素晴らしい先生がおります。それに加え、中学3年のクラスでは個人教師を付けてもらいました。学校で一番の男子で、彼は今は物理数学部で勉強しています。彼は無料で教えてくれて、すごく助けてくれました。彼のおかげで、試験を5と4で合格できました。秋には高校2年のクラスに移ります。
(選手生活は終わったのだとはっきりと理解した最初の日のことを覚えていますか?)
変な感じでした。慣れのせいで朝6時に起きましたが、1日何をして過ごしていいのか想像できませんでした。学校もまだ始まっていませんでした、8月だったので。それで、ただ子供公園に行って、ブランコで揺れて、学校はどうなるのだろう、友達はできるだろうかと考えていました。ノートや文房具を選びました。一言で言えば、私はずっと過ごしたかった、普通の生活です。
サンクトペテルブルクに引っ越してきた頃は小学5年の級に行くつもりでした。学校が好きでしたので。しかし、完全に練習スケジュールを組むと学校の時間はないと、家族会議で決まりました。そのため、中学3年のクラスに戻るのは、私にとってほとんどお祭りのようなものでした。
(同級生はあなたの選手としての過去をご存知ですか?)
はい、先生から伝えられました。私がなぜ勉強をしていなかったのか、なぜ最初のうちは支援の必要があるのかを、入学書類を学校に提出するときに父が校長先生に説明してくれました。学校を長い間休んでいたのに試験を5で合格してからは、先生は私を模範例として取り上げてくれるようになりました。同級生はインターネットで私のことを調べて、そしてそこには(笑)。でも素晴らしいクラスで、仲がとても良いです。
(サンクトペテルブルクですきな場所はどこですか?どこをよく散歩しますか?)
300周年記念公園ですかね。噴水のところのベンチに座るのがすきです。学校の周りをよく散歩します。道路沿いの広場にかわいらしいあずまやがあるんです。
(以前、日本を夢の国だとおっしゃっていましたが、もう日本には行けましたか?)
いいえ、まだ中国までです。でも今は少し好みが変わりました。ミーシン・グループでカナダ合宿に行って、カナダをすごく好きになりました。グエルフという小さな街で、フィギュアスケートを滑る子供たちのいる家に滞在しました。その家には女の子が3人いて、長女とのサッカーの試合を観に行ったり、次女の演技を見に行ったり…とても暖かく迎えてくれました。
いつかカナダに住んでみたいと思っています。35-40歳くらいで、良い教育を受け、すでに独り立ちして十分にお金を稼いでいる頃に。そこで指導もできるかもしれません。
(エクストリームなスポーツに夢中になっていることはありませんか?フィギュアスケートをやめた多くの選手は、カートやスノーボードなどに捌け口とアドレナリン源を探すこともありますが。)
大会での感覚はジェットコースターのようなもので、ときどき実際に足りていないと思うことはあります。しかし、エクストリームなものは今のところまだに何もできていません。いま私の仕事は指導だけですので、あらゆる怪我が失職につながります。私の身体は仕事道具ですから、リスクをとることはできません。
唯一、比較的エクストリームなものといえば、スケートボードに乗ります。トリックのできるものが欲しかったのですが、危ないので考え直しました。
(選手生活で、コンディションを維持するのはあなたにとっては楽でしたか?)
特に問題はありませんでした。あまりたくさん食べないように、6時以降は食べないようにと母が言っていたくらいです。とはいえ、夕方6時までは食べたいものは何でも食べていましたけど(笑)。9時には寝ていたので、特に誘惑はありませんでした。
(学校や仕事以外の時間があるときは何をするのが好きですか?)
本を読んだり映画を見たり、友達と散歩したりします。みんなと同じです。
(最近、大きな影響を受けた本や映画、音楽アルバムはありますか?)
映画の「ロリータ」を見ました。そこでハンバートが「子供の笑い声は聞いていたけれど、ロリータの声は聞いていない」と行っていました。つまり、彼は暴力で好意はありえないと認識していたのです。全体として、映画の最後は意義と道徳に満ちています。
(選手生活で夢見ていたことと、いま夢見ていることを教えて下さい。)
選手生活でオリンピックを夢見たことはありませんでした。本当です。ただ滑って自分の能力を向上させるのが好きでした。先走りすることはありませんでした。
いま夢見ているのは、アリーナ・ユリエヴナ・ピサレンコの指導レベルに達することです。そういった経験あるコーチになるためには、20年とか、たくさん仕事をしなければならないのは理解しています。私の教え子たちが大きな大会に出て、スポーツマスターの称号をもらえるようになるまでには。
(17歳といえば、世界を変え、自分を試し、実現できないようなことを夢見る年頃です。なにか信じられないような夢はありますか?)
カナダに移住することくらいです(笑)。いまはすべて順調に進んでいます。フィギュアスケートを捨ててから、私の人生はかなり落ち着きました。それが気に入っています。
(終わり)
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