エテリ・トゥトベリゼ・コーチが、ジャーナリストのウラジーミル・ポズネルのインタビューを受けた記事がBusiness Online Sportに掲載されていましたので、4回に分けて紹介します。
今回は第3回です。
トゥトベリゼ:表彰台から落ちたら、何者でもない
(1)ジュニア女子の指導
(2)リプニツカヤ/アジア系女子/厳しさ
(3)アイスダンスのキャリアとアメリカへの移住と帰還 ← この記事
(4)ドーピング/好きなスケーター
(続き)
(続く)
今回は第3回です。
トゥトベリゼ:表彰台から落ちたら、何者でもない
(1)ジュニア女子の指導
(2)リプニツカヤ/アジア系女子/厳しさ
(3)アイスダンスのキャリアとアメリカへの移住と帰還 ← この記事
(4)ドーピング/好きなスケーター
ポズネルを訪ねたトゥトベリゼ - オクラホマのテロ、ジュニア女子への批判と厳しさ
2019/4/2 / Business Online Sport / ルスタム・イマモフ
(続き)
アイスダンスのキャリア
(タチヤナ・タラソワの指導を受けていた時期があったが)
その頃、彼女は私にかまうどころではなかったので、彼女のところで私が滑っていたことをおそらく覚えてはいないでしょう。タラソワはクリモフとポノマレンコの指導をしていて、オリンピックに連れていきました。半年は彼らに付いていました。その後、私は引退を決めました。
結果を出すのを邪魔したのは怪我でした。私は背が伸びてコーディネーションを失いました。アイスダンスに転向することも提案されましたが、私にとってそれは屈辱的で、打ちのめされました。つまり、シングルでは何も結果を出せないの?という意味で。アイスダンスについては、好きなことをする唯一の機会として捉えていて、本当にやりたいものとは思っていませんでした。何れにせよ女子シングルを見ていましたし、羨んでいました。とはいえ、私の身長では何かに到達するのはとても難しかったことでしょう。
(現在、トゥトベリゼの身長は176cmだが、もっと小さくなりたかったという。)
その方が都合が良いですから。
オクラホマでのテロ
(その後トゥトベリゼは氷上バレエに向かうことを決める。氷上ロシアバレエ団に入り、アメリカを席巻しようとする。)
アメリカでは面白いことがありました。アメリカに着いたのですが、モスクワ住民だけが国境を通過できて、他の都市の住民はパスポートが正しく作成されていなかったのです。契約はバレエ団全体とのものだったのに!1ヶ月後彼らが戻ってきたときには、契約はもうすべて破棄されて、私たちは何も持たずにアメリカに残ることになりました。お金もなく、何をすべきかもわからずに。しかし、戻るつもりもありませんでした。こんな風になるために来たのではない。お金を稼ぎたかったんです。
(結果、バレエ団は貧困ホームレス保護施設に済むことに。エレベーターで生活し、シャワーもトイレもない…。しかし、不幸はこれにとどまらなかった。1995年4月19日、オクラホマ・シティでテロが発生。しかも、まさにその保護施設がある場所で。トゥトベリゼと氷上バレエ団はあやうく死ぬところだった。)
爆発が起こったとき、私たちは道路のすぐ反対側にいました。ガラスが飛び散り、たくさんの人が亡くなりました。何か、現実ではないものでした。道路に飛び出ましたが、何が起こったのか理解できませんでした。これは全部夢なんじゃないかと思いました。私はシーツを身体に巻いているだけで、スリッパを履いて歯を磨いていたところでした。外は見渡す限り瓦礫だらけ。車は燃えていて。周辺では叫び声だらけでした。どこに行くべきなのかずっとわかりませんでした。爆発の第二波があって、ベンチの下に逃げるべきだったのでしょうけれど、何もできませんでした。
(トゥトベリゼがショック状態にある間に怪我人はすべて運び出され、保護施設には居場所はなかった。エテリを救った消防士は、彼女を一時的に自分の家に住まわせ、またアメリカでの仕事を見つけるのを手伝ってくれた。)
ロシアへの帰還
(時が経ち、トゥトベリゼはアメリカで悪くない生活を送っていたが、突然ロシアに戻ることを決めた。なぜか。)
アメリカですべてが上手く回っていない間は、一人前の人間になりたいと思っていました。自分の人生を軌道に乗せ、お金を稼ぎ、指導ができると証明したかったのです。金銭的にはアメリカで働くのはとても有利で、アメリカ人はロシア人を尊敬していました。ロシアには最高の専門家がいると思われていました。けれど、私にとっては、自分は生きていないという感覚がありました。プラットホームに立っているけれど、列車は次々と自分のそばを通り過ぎているような。私は立って、いつ自分の乗る列車が来るのだろうと待っているのです。私が生きることができるのはいつなんだろう?すべては軌道に載った用に見えるのですが、私の人生ではありませんでした。
そうして、戻らなくてはいけないとわかったのです。まず、私は大家族で、五番目の子供でした。家族がいなくては生きていけないと教育されたとは言えません。いま、モスクワで働いていても、お互いに会うことはほとんどありません。しかいいずれにせよ、帰らなくてはと感じていたのです。モスクワでは誰も私のことなんか待っていないとわかっていました。しかし、モスクワですべてをゼロから始めるためには、あり得るもっとも不快でひどいことを経験しなければいけないと、自分で決めたのです。自分がいるべきところではないとわかったなら、帰ろうと。
ロシアとアメリカの違い
アメリカには友人がたくさんいます。数少ない友人たちです。ロシアには友人はいません。同僚やチームはあります。けれど、ここでは仲良くなることはないのですが、アメリカでは友人が残っています。本物といえる友人が。とはいえ、最初はアメリカ人のことがわからなかったように思えます。みんなが微笑みかけてくれますが、実際は自分のことなんかどうでもよいのです。ただ「調子はどう?」と言いたいだけで、すぐに言ってしまいます。どうでもよいです。ロシアでは、人に対して微笑みかけるか、あるいはまったく気づかないかのいずれかといったメンタリティです。おそらく、より誠実ということでしょう。私たちは育てられ方が違うのです。
(ロシアとアメリカの違いはもう一つある。それは練習に対するアプローチだ。)
アメリカ人は氷上練習をとても大切にします。アメリカでは、スケーター自身がリンクやレッスンに対しお金を払います。毎分毎分が大切なのです。私のところにはとても背の高い女子スケーターがいたのですが、彼女については私自身どうして良いかわかりませんでした。彼女をただ壊してしまうのではないかと思っていました。彼女がリンクに入り、私は彼女に対し調子はどうとか学校で何があったとか訊き始めると、彼女はすでに練習時間が始まっていると言って私をたしなめるのです。ロシアでは、5回も休みながらゆっくりと靴紐を結びます。ただ時間が経つだけなのに。ロシア人は氷上の時間を大切にしません。果報は寝て待てなのです。タダで手に入れられるものを大切にしようとはしません。
ジョージア語は忘れたのに、ロシア語は習得できなかった
(国への帰属意識について)
ジョージア語は数フレーズしか知りません。ロシアで生まれ育ったので、自分をジョージア人だとは感じていません。血は換わっていません。父はジョージア人です。父はいつも、ジョージア語は忘れたのにロシア語は習得できなかったと冗談を言っていました。
(続く)
貴重なインタビューの翻訳、ありがとうございます。
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