2013/11/20付で別ブログ「ロシアン・フィギュアスケート・フォレヴァ」に掲載した記事です。
ラファエル・アルトゥニヤンがロシアのプレスにインタビューをしていましたが、浅田について語っています。私はにわかファンなので経緯をよく知らなかったのですが、アルトゥニヤンと浅田の別れは謎めいていたようですね。このインタビューでその謎の一部が解けるかもしれません。
インタビューのタイトルは、「プルシェンコは知っている、ということを私は知っている」ですが、前半にはプルシェンコは出てこない(というか、全編通して浅田の話がメイン)ので、管理人が仮に表記のようなタイトルを付けています。
後編にプルシェンコやワグナー、キムユナと浅田が出てきます。こちらも鋭意抄訳中です。
では、前編の抄訳どぞー。
* * *
エレナ・ヴァイツェホフスカヤ
アルトゥニヤンはロシアチャンピオンのアレクサンドル・アブト、アメリカチャンピオンのサーシャ・コーエンとミシェル・クワンのコーチをしていた。2008年には、2人の教え子である浅田真央とジェフリー・バトルが同時に世界選手権の金メダルに輝いた。ラファエル・アルトゥニヤンは自分について簡単にこう言う:「フィギュアスケーターの調子が本当に悪くなると、119番のように私に電話をかけてくる」
彼女は本当に小さかった・・・(一瞬沈黙し、思い出したかのように微笑んだ)。でもまさに彼女が私を「プロデュース」して、レイク・アローヘッドでフランク・キャロルの代わりとしてリンクのオーナーに推薦してくれたんだ。でもその時はサーシャを教えるのは断ったんだが。もうアメリカのコーチだと自分では思っていたから、前任者の公的な同意なしにスケーターを引き受けられなかった。コーエンが大笑いして、「どうして?私が貴方をここに呼んだのに、私のことを断るわけ?」と言ったのを覚えている。しかし彼女自身が、ロサンゼルスで一緒にやっていたジョン・ニックスと話を付けた。ニックスはもうその時で70を超えていたが、私と会うために車に乗って自分でレイク・アローヘッドに来た。私の教え方が気に入った、サーシャが彼の所だけでなく私のところでも練習することに反対しないと言った。こうして彼女は私のところへも来るようになった。1年か1年半かして、彼女はニックスのところを出て私とだけ練習したいと宣言した。私は断った。
(アメリカの倫理感を犯すのが怖かったのですか?)
いや、それについては自分の感覚のほうが私にとってははるかに重要だ。私を信じてスケーターを預けてくれた人から、いったいどうして彼女を取り上げることができるだろうか?もしサーシャに「いいよ」と言ってしまっていたら、一生自分の中で拭えなかっただろう。
コーエンはいずれにせよ去っていった。タチヤナ・タラソワのところへ。それからロビン・ワグナーに移って、またニックスに戻って、それから滑るのをやめてしまった。しばらく経ってまた私のところに電話してきて、バンクーバー・オリンピックに向けてコーチをしてくれないかと依頼してきた。練習に来るようになったが、考えを変えたようだ。私が必要不可欠だと考えた練習の時間が単純にない、と彼女は言った。
(コーエンの後はミシェル・クワンが来ましたね)
そう。彼女は最初単に技術的なサポートを求めて来た。その時彼女はすべてのジャンプの調子が狂っていて、全体的な状況も改善が望まれるものだった。全部で2年一緒に練習したかな。オレグ・エプシュタインがデトロイトから電話してきて、「ラフィック、練習でミシェルに怒鳴ってるって本当かい?街中みんな噂してるぜ」と訊いてきたのを覚えている。
実際、そのときはクワンにはかなり厳しく対処していた。でも、彼女は素晴らしいプロフェッショナルと言わざるを得ない。練習でも、私に対する態度でもだ。彼女がリンク開始の15分前に来たことがある。滑る前にはもっとよくウォームアップをすべきだと注意したんだ。そうしたら、ミシェルは私を見てこう言った:「ねえ、私が家でお茶を飲んでたとでも思ってる?」
彼女の家にはホールがあって、ミシェルは練習前にはいつもしっかりと準備をしていたようなんだ。ウォームアップとストレッチ。ミシェルが私のところに来た時にはすでに大きな怪我をしていたから、プログラムを「裁断する」ためには過去のものから作らなければならなかった。でも、痛みのために何も出来ない練習もあった。そんなときは彼女は黙ってサークルを続けていた。
(浅田真央のコーチをを続けられなかったことを残念に思ったことはありますか?)
今でも残念だ。最後に彼女といたのは2007年12月だった。まずトリノでグランプリ・ファイナルがあって、そこで浅田はFSでトップ、総合で2位となった。それから全日本選手権。その後アメリカへと戻った。真央は1月14日に私のところに来ると合意していた。ヨーテボリでの世界選手権までの練習スケジュールをすでに非常に詳細に決められていたが、決められた時までに真央は現れなかった。彼女から電話で、私が彼女のところにこれないかとお願いをされた。私はもちろんできなかった。ジェフリー・バトルとの練習があったからだ。しかしアシスタントを日本に送った。真央にはこれまで通りレイク・アローヘッドで待つと伝えた。
事実、真央の日本での練習状況は常に良くなかった。どのスターの周りにもある、注意を逸らせるような要素があまりにも多かったからだ。真央もそれを気に入ってなくて、自分に閉じこもり、その状態を氷へと移してしまった。いずれにせよ、私があまりに厳しい条件を突き付けてしまったということに尽きる。彼女が戻ってくるか、これ以上コーチをしないかのどちらかだった。
後になって知ったのだが、浅田の母親にちょうどガンが診断されたという。家族はこのことを秘密にしていて、私にも何も言わなかった。しかし、もちろん、こういう場合には私も自分で日本に行く機会を見つけるべきだった。少なくともこんなに厳しい条件を突きつけることはなかった。
このことから私は多くを学んだ。特に、コーチは原因を追求せずに決定を下していはいけないということだ。浅田が私の元を去ったのではなく、私が彼女に去ることを強制したことになる。彼女はそれを最後まで望んでいなかったのに。世界選手権で、フリーが始まるまでプロトコルには浅田の隣に私の名前があったくらいだ。真央は私がジェフリー・バトルとともにヨーテボリに来て、彼女が滑るときにフェンスのところに立ってくれると考えていたのだろう。しかし私はスウェーデンにも来なかった。
(なぜでしょう?)
まさにリンク・サイドに立つといことは、浅田との関係を再開するということだと理解してたからだ。簡単に言うと、原則に従ったということだ。バカみたいに。こんな例はフィギュアスケートの歴史上起こったことはなかったと思う。教え子2人が世界チャンピオンになったのに、コーチはリンクサイドにもいないという。
つづく
ラファエル・アルトゥニヤンのインタ(前):浅田との別れ、サーシャ・コーエンとミシェル・クワン
ラファエル・アルトゥニヤンがロシアのプレスにインタビューをしていましたが、浅田について語っています。私はにわかファンなので経緯をよく知らなかったのですが、アルトゥニヤンと浅田の別れは謎めいていたようですね。このインタビューでその謎の一部が解けるかもしれません。
インタビューのタイトルは、「プルシェンコは知っている、ということを私は知っている」ですが、前半にはプルシェンコは出てこない(というか、全編通して浅田の話がメイン)ので、管理人が仮に表記のようなタイトルを付けています。
後編にプルシェンコやワグナー、キムユナと浅田が出てきます。こちらも鋭意抄訳中です。
では、前編の抄訳どぞー。
* * *
ラファエル・アルトゥニヤン「プルシェンコは知っている、といことを私は知っている」
http://www.sport-express.ru/velena/reviews/38117/エレナ・ヴァイツェホフスカヤ
アルトゥニヤンはロシアチャンピオンのアレクサンドル・アブト、アメリカチャンピオンのサーシャ・コーエンとミシェル・クワンのコーチをしていた。2008年には、2人の教え子である浅田真央とジェフリー・バトルが同時に世界選手権の金メダルに輝いた。ラファエル・アルトゥニヤンは自分について簡単にこう言う:「フィギュアスケーターの調子が本当に悪くなると、119番のように私に電話をかけてくる」
コーエン、キャロル、ニックス
彼女は本当に小さかった・・・(一瞬沈黙し、思い出したかのように微笑んだ)。でもまさに彼女が私を「プロデュース」して、レイク・アローヘッドでフランク・キャロルの代わりとしてリンクのオーナーに推薦してくれたんだ。でもその時はサーシャを教えるのは断ったんだが。もうアメリカのコーチだと自分では思っていたから、前任者の公的な同意なしにスケーターを引き受けられなかった。コーエンが大笑いして、「どうして?私が貴方をここに呼んだのに、私のことを断るわけ?」と言ったのを覚えている。しかし彼女自身が、ロサンゼルスで一緒にやっていたジョン・ニックスと話を付けた。ニックスはもうその時で70を超えていたが、私と会うために車に乗って自分でレイク・アローヘッドに来た。私の教え方が気に入った、サーシャが彼の所だけでなく私のところでも練習することに反対しないと言った。こうして彼女は私のところへも来るようになった。1年か1年半かして、彼女はニックスのところを出て私とだけ練習したいと宣言した。私は断った。
(アメリカの倫理感を犯すのが怖かったのですか?)
いや、それについては自分の感覚のほうが私にとってははるかに重要だ。私を信じてスケーターを預けてくれた人から、いったいどうして彼女を取り上げることができるだろうか?もしサーシャに「いいよ」と言ってしまっていたら、一生自分の中で拭えなかっただろう。
コーエンはいずれにせよ去っていった。タチヤナ・タラソワのところへ。それからロビン・ワグナーに移って、またニックスに戻って、それから滑るのをやめてしまった。しばらく経ってまた私のところに電話してきて、バンクーバー・オリンピックに向けてコーチをしてくれないかと依頼してきた。練習に来るようになったが、考えを変えたようだ。私が必要不可欠だと考えた練習の時間が単純にない、と彼女は言った。
クワン
(コーエンの後はミシェル・クワンが来ましたね)
そう。彼女は最初単に技術的なサポートを求めて来た。その時彼女はすべてのジャンプの調子が狂っていて、全体的な状況も改善が望まれるものだった。全部で2年一緒に練習したかな。オレグ・エプシュタインがデトロイトから電話してきて、「ラフィック、練習でミシェルに怒鳴ってるって本当かい?街中みんな噂してるぜ」と訊いてきたのを覚えている。
実際、そのときはクワンにはかなり厳しく対処していた。でも、彼女は素晴らしいプロフェッショナルと言わざるを得ない。練習でも、私に対する態度でもだ。彼女がリンク開始の15分前に来たことがある。滑る前にはもっとよくウォームアップをすべきだと注意したんだ。そうしたら、ミシェルは私を見てこう言った:「ねえ、私が家でお茶を飲んでたとでも思ってる?」
彼女の家にはホールがあって、ミシェルは練習前にはいつもしっかりと準備をしていたようなんだ。ウォームアップとストレッチ。ミシェルが私のところに来た時にはすでに大きな怪我をしていたから、プログラムを「裁断する」ためには過去のものから作らなければならなかった。でも、痛みのために何も出来ない練習もあった。そんなときは彼女は黙ってサークルを続けていた。
一生の教訓
(浅田真央のコーチをを続けられなかったことを残念に思ったことはありますか?)
今でも残念だ。最後に彼女といたのは2007年12月だった。まずトリノでグランプリ・ファイナルがあって、そこで浅田はFSでトップ、総合で2位となった。それから全日本選手権。その後アメリカへと戻った。真央は1月14日に私のところに来ると合意していた。ヨーテボリでの世界選手権までの練習スケジュールをすでに非常に詳細に決められていたが、決められた時までに真央は現れなかった。彼女から電話で、私が彼女のところにこれないかとお願いをされた。私はもちろんできなかった。ジェフリー・バトルとの練習があったからだ。しかしアシスタントを日本に送った。真央にはこれまで通りレイク・アローヘッドで待つと伝えた。
事実、真央の日本での練習状況は常に良くなかった。どのスターの周りにもある、注意を逸らせるような要素があまりにも多かったからだ。真央もそれを気に入ってなくて、自分に閉じこもり、その状態を氷へと移してしまった。いずれにせよ、私があまりに厳しい条件を突き付けてしまったということに尽きる。彼女が戻ってくるか、これ以上コーチをしないかのどちらかだった。
後になって知ったのだが、浅田の母親にちょうどガンが診断されたという。家族はこのことを秘密にしていて、私にも何も言わなかった。しかし、もちろん、こういう場合には私も自分で日本に行く機会を見つけるべきだった。少なくともこんなに厳しい条件を突きつけることはなかった。
このことから私は多くを学んだ。特に、コーチは原因を追求せずに決定を下していはいけないということだ。浅田が私の元を去ったのではなく、私が彼女に去ることを強制したことになる。彼女はそれを最後まで望んでいなかったのに。世界選手権で、フリーが始まるまでプロトコルには浅田の隣に私の名前があったくらいだ。真央は私がジェフリー・バトルとともにヨーテボリに来て、彼女が滑るときにフェンスのところに立ってくれると考えていたのだろう。しかし私はスウェーデンにも来なかった。
(なぜでしょう?)
まさにリンク・サイドに立つといことは、浅田との関係を再開するということだと理解してたからだ。簡単に言うと、原則に従ったということだ。バカみたいに。こんな例はフィギュアスケートの歴史上起こったことはなかったと思う。教え子2人が世界チャンピオンになったのに、コーチはリンクサイドにもいないという。
つづく
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