今年、トゥトベリゼ・コーチからプルシェンコの下へと移籍し、ジュニアグランプリファイナルにも出場したアナスタシヤ・タラカノワのロングインタビューがGazeta.ruに掲載されていましたので紹介します。JGPF直前のインタビューです。
第3回です。
(1)JGPSとプログラムについて
(2)プルシェンコ・アカデミーでの練習
(3)トゥトベリゼを離れた経緯 ← この記事
(4)スケートをする目的
2018/6/12 / Gazeta.ru / エリヴィラ・オンダル
(続き)
夏に一ヶ月まったく滑っていなかったんです。練習を休んでいたということでなく、ただ単に離れていました。
シーズンが始まって、2週間滑りましたが、そのチームとは別れることにしました。「終わり、私はもうたくさん」と言いました。
どこかに移籍しようとは思っていませんでした。ただリンクに行かなくなっただけで。「クリーンに滑っても、点数は少ないし、順位もふさわしくない」といった思いがありました。これで、純粋に精神的に削られました。
何かをするときには、何のためかを知る必要があります。そして、それは常に1位になることだけでした。私にとっては、1位以外は順位ではありません。2位や3位も、20位と同じです。
(常に最高を求め続ける方なんですね。)
そうです。ただ、ロシア・ジュニア選手権では3位に入れれば嬉しいと思ったでしょう。というのも、それで世界選手権に行けるからです。
しかし、クリーンに滑っても私は6位にも入れませんでした。6位以内はロシア代表チームです。ただ、私は他の大会の結果で代表チーム入りをしましたが、その結果はそれでも私にとってショックでした。
それだけでなく、ロシア・カップ・ファイナルでは私は膝がひどく痛みました。歩くのもやっとだったので、棄権を考えていました。しかしコーチは、強い気持ちを出さなくてはいけないと言いました。それで私は行きました。私は膝にサポーターを付けて出場しましたが、ショートもフリーもクリーンに滑ることができました。どんな状況でもクリーンに滑ることができると自分に証明したのです!
(そして?)
その後、治療をしていたのですが、それらすべてに加えて喉のウィルスにかかって、1週間点滴をしました。
(そこからどうやって回復されたのでしょうか。)
リンクに戻ってきたら、2回転ジャンプも跳べませんでした。すべてをまた新たに練習しなければなりませんでした。
エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)は母に、「ナースチャ(タラカノワ)に強い気持ちがあれば、回復します」と言いました。
私が間違いをしたときには教えてくれました。エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)、ダニール・マカロヴィチ(グレイヘンガウス)、セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・ドゥダコフ、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ロザノフに対して、私にたくさんの注意を払ってくれたこと、大会に連れて行ったくれたことにとても感謝しています。彼らと一緒だったから、国際レベルにまで上がって、最初のグランプリファイナルにも出場できました。
(治療中は何をしていたのですか?)
技術の修正をしていました。跳び始めてからもジャンプがまだ高くなくて、うまくいくのが1回おきでした。しかし、私に対して注意を払ってもらいはじめて、練習が続けられました。ジャンプを全部取り戻したのは、まだ前のチームにいる頃でした。
(なぜチームを離れたのでしょうか。)
そのチームで何かが合わなかったから離れたわけではありません。すべて問題ありませんでした。また、競争を恐れたわけでもありません。
しかし、私は昨シーズンずっと精神的に削られて、それで…ここで何かを考え出そうとはしないでおきますが…フィギュアスケートを捨てました。
1ヶ月間滑りませんでした。それで、自分にフィギュアスケートが足りない、と思ったわけではありませんでした。ただ…何というか…。両親を見て、私の練習以外になされてきたことを理解したのです。これは私の両親がしてきたことでもあります。両親は私にこれだけの力を捧げてきたのですから、とても残念だったことでしょうに、私の選択には何もできないんです。私はきまりが悪くなって、フィギュアスケートに戻ることにしました。それで、誰のところに行けるかと考え始めたのです。
(どのようにプルシェンコを選んだのでしょうか。)
セラフィマ・サハノヴィチと話をしました。それで、このアカデミーでは負荷が十分で、すべてが揃っていると知りました。また、結果についても見ました。エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)の下で、サハノヴィチは初めてのシニアのグランプリ大会に出られたのです。つまり、プルシェンコと一緒に彼女は回復をし始めて、それで大会に出させてもらったのです。「エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)は素晴らしいコーチに違いない」と思いました。これまで観察したところでは、私は間違っていませんでした。
本当です(笑)!集中できなかったから追い出されたんです。常にクリーンに滑るために、集中する能力を持たなければならないように仕向けられていました。私達が通しで滑れるのは1度だけで、それ以上のチャンスはありませんでした。大会と同じように。
チャンスを求めてももらえません。できなかったら、がっかりして、それで終わり、また次です。それで、私はかなりよく追い出されていました。
(トゥトベリゼのグループに移籍したときは、エヴゲニヤ・メドヴェデワやアリーナ・ザギトワと一緒に練習をすると思っていましたか?)
いえ、私はただ、毎日、例が見られるように目標とする人が欲しかったのです。「あ、世界女王だ!」と感動するようなことはありませんでした。人生でこれまで誰にも狂信的になったりサインを貰ったりしたことはありません。
(メドヴェデワやザギトワと一緒に練習して、どのような印象が残っていますか?)
だいたいジェーニャ(メドヴェデワ)と話していました。なぜか彼女と交流することの方が多かったです。とても社交的で、好意的です。
アリーナは…どんなときでも急に動くことができるんです。彼女とも話をしていました。更衣室がとても狭いので、ほぼ同じ場所に座って話をしていました。しかし、友人は選んでなるものではないように、なぜジェーニャの方とよく話していのかは説明できないでしょう。ふたりともとても良い人ですが。
(ジェーニャが離れることになってとても驚きましたか?)
ええ、本当に。彼女とエテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)は、本当に、母と娘のように見ていました。2人はいつも話していて、冗談を言ったり、どこかに出かけてたりしていました。
お互いから何かを求めるような、コーチと将来性のある選手という単なる関係ではありませんでした。とても暖かな関係でした。どこでも見たことがないような。
ですので、ジェーニャが離れたのはショックでした。おかしなことですし、最初は信じていませんでした。正直なところ!
(このことが、あなたが離れる決断をしたことにも何か影響はあったのでしょうか。)
いいえ、まったくありません。
(メドヴェデワとザギトワの競争が今シーズンはあるかどうかについて、どう思っていますか?)
そんな先のことは予想できません。もしかすると、メドヴェデワはこれから4回転を跳ぶかもしれませんし、ザギトワも4回転を習得し始めるかもしれません。私たち、現在のジュニア選手は、成長期に入り、4回転が跳べなくなるかもしれません。
それに、だいたい先のことを予想する必要はありません。あることを言っても、全く違うようになるというのは、普通のことでよくあることです。
(続く)
第3回です。
(1)JGPSとプログラムについて
(2)プルシェンコ・アカデミーでの練習
(3)トゥトベリゼを離れた経緯 ← この記事
(4)スケートをする目的
アナスタシヤ・タラカノワ:トゥトベリゼから離れたのではなく、フィギュアスケートすべてから離れた
https://www.gazeta.ru/sport/2018/12/06/a_12084865.shtml2018/6/12 / Gazeta.ru / エリヴィラ・オンダル
(続き)
「「私はもうたくさん」と言って、あのチームとは別れた」
(トゥトベリゼのもとを離れる決断はどのようにしたのでしょうか。)夏に一ヶ月まったく滑っていなかったんです。練習を休んでいたということでなく、ただ単に離れていました。
シーズンが始まって、2週間滑りましたが、そのチームとは別れることにしました。「終わり、私はもうたくさん」と言いました。
どこかに移籍しようとは思っていませんでした。ただリンクに行かなくなっただけで。「クリーンに滑っても、点数は少ないし、順位もふさわしくない」といった思いがありました。これで、純粋に精神的に削られました。
何かをするときには、何のためかを知る必要があります。そして、それは常に1位になることだけでした。私にとっては、1位以外は順位ではありません。2位や3位も、20位と同じです。
(常に最高を求め続ける方なんですね。)
そうです。ただ、ロシア・ジュニア選手権では3位に入れれば嬉しいと思ったでしょう。というのも、それで世界選手権に行けるからです。
しかし、クリーンに滑っても私は6位にも入れませんでした。6位以内はロシア代表チームです。ただ、私は他の大会の結果で代表チーム入りをしましたが、その結果はそれでも私にとってショックでした。
それだけでなく、ロシア・カップ・ファイナルでは私は膝がひどく痛みました。歩くのもやっとだったので、棄権を考えていました。しかしコーチは、強い気持ちを出さなくてはいけないと言いました。それで私は行きました。私は膝にサポーターを付けて出場しましたが、ショートもフリーもクリーンに滑ることができました。どんな状況でもクリーンに滑ることができると自分に証明したのです!
(そして?)
その後、治療をしていたのですが、それらすべてに加えて喉のウィルスにかかって、1週間点滴をしました。
(そこからどうやって回復されたのでしょうか。)
リンクに戻ってきたら、2回転ジャンプも跳べませんでした。すべてをまた新たに練習しなければなりませんでした。
エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)は母に、「ナースチャ(タラカノワ)に強い気持ちがあれば、回復します」と言いました。
私が間違いをしたときには教えてくれました。エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)、ダニール・マカロヴィチ(グレイヘンガウス)、セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・ドゥダコフ、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ロザノフに対して、私にたくさんの注意を払ってくれたこと、大会に連れて行ったくれたことにとても感謝しています。彼らと一緒だったから、国際レベルにまで上がって、最初のグランプリファイナルにも出場できました。
(治療中は何をしていたのですか?)
技術の修正をしていました。跳び始めてからもジャンプがまだ高くなくて、うまくいくのが1回おきでした。しかし、私に対して注意を払ってもらいはじめて、練習が続けられました。ジャンプを全部取り戻したのは、まだ前のチームにいる頃でした。
(なぜチームを離れたのでしょうか。)
そのチームで何かが合わなかったから離れたわけではありません。すべて問題ありませんでした。また、競争を恐れたわけでもありません。
しかし、私は昨シーズンずっと精神的に削られて、それで…ここで何かを考え出そうとはしないでおきますが…フィギュアスケートを捨てました。
1ヶ月間滑りませんでした。それで、自分にフィギュアスケートが足りない、と思ったわけではありませんでした。ただ…何というか…。両親を見て、私の練習以外になされてきたことを理解したのです。これは私の両親がしてきたことでもあります。両親は私にこれだけの力を捧げてきたのですから、とても残念だったことでしょうに、私の選択には何もできないんです。私はきまりが悪くなって、フィギュアスケートに戻ることにしました。それで、誰のところに行けるかと考え始めたのです。
(どのようにプルシェンコを選んだのでしょうか。)
セラフィマ・サハノヴィチと話をしました。それで、このアカデミーでは負荷が十分で、すべてが揃っていると知りました。また、結果についても見ました。エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)の下で、サハノヴィチは初めてのシニアのグランプリ大会に出られたのです。つまり、プルシェンコと一緒に彼女は回復をし始めて、それで大会に出させてもらったのです。「エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)は素晴らしいコーチに違いない」と思いました。これまで観察したところでは、私は間違っていませんでした。
「トゥトベリゼのグループではよく練習から追い出された」
(トゥトベリゼのグループでは練習から追い出されたことがあるというのは本当ですか?)本当です(笑)!集中できなかったから追い出されたんです。常にクリーンに滑るために、集中する能力を持たなければならないように仕向けられていました。私達が通しで滑れるのは1度だけで、それ以上のチャンスはありませんでした。大会と同じように。
チャンスを求めてももらえません。できなかったら、がっかりして、それで終わり、また次です。それで、私はかなりよく追い出されていました。
(トゥトベリゼのグループに移籍したときは、エヴゲニヤ・メドヴェデワやアリーナ・ザギトワと一緒に練習をすると思っていましたか?)
いえ、私はただ、毎日、例が見られるように目標とする人が欲しかったのです。「あ、世界女王だ!」と感動するようなことはありませんでした。人生でこれまで誰にも狂信的になったりサインを貰ったりしたことはありません。
(メドヴェデワやザギトワと一緒に練習して、どのような印象が残っていますか?)
だいたいジェーニャ(メドヴェデワ)と話していました。なぜか彼女と交流することの方が多かったです。とても社交的で、好意的です。
アリーナは…どんなときでも急に動くことができるんです。彼女とも話をしていました。更衣室がとても狭いので、ほぼ同じ場所に座って話をしていました。しかし、友人は選んでなるものではないように、なぜジェーニャの方とよく話していのかは説明できないでしょう。ふたりともとても良い人ですが。
(ジェーニャが離れることになってとても驚きましたか?)
ええ、本当に。彼女とエテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)は、本当に、母と娘のように見ていました。2人はいつも話していて、冗談を言ったり、どこかに出かけてたりしていました。
お互いから何かを求めるような、コーチと将来性のある選手という単なる関係ではありませんでした。とても暖かな関係でした。どこでも見たことがないような。
ですので、ジェーニャが離れたのはショックでした。おかしなことですし、最初は信じていませんでした。正直なところ!
(このことが、あなたが離れる決断をしたことにも何か影響はあったのでしょうか。)
いいえ、まったくありません。
(メドヴェデワとザギトワの競争が今シーズンはあるかどうかについて、どう思っていますか?)
そんな先のことは予想できません。もしかすると、メドヴェデワはこれから4回転を跳ぶかもしれませんし、ザギトワも4回転を習得し始めるかもしれません。私たち、現在のジュニア選手は、成長期に入り、4回転が跳べなくなるかもしれません。
それに、だいたい先のことを予想する必要はありません。あることを言っても、全く違うようになるというのは、普通のことでよくあることです。
(続く)
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