今年、トゥトベリゼ・コーチからプルシェンコの下へと移籍し、ジュニアグランプリファイナルにも出場したアナスタシヤ・タラカノワのロングインタビューがGazeta.ruに掲載されていましたので紹介します。JGPF直前のインタビューです。
最終回の第4回です。
(1)JGPSとプログラムについて
(2)プルシェンコ・アカデミーでの練習
(3)トゥトベリゼを離れた経緯
(4)スケートをする目的 ← この記事
https://www.gazeta.ru/sport/2018/12/06/a_12084865.shtml
2018/6/12 / Gazeta.ru / エリヴィラ・オンダル
(続き)
いつもは、どこかに行くときや、時間があれば練習のときに自分を撮るようにお願いします。編集は、休んでいるとき、もう夜かお風呂で。本当に予定は詰まっていますが、なんとか気を紛らわしたいと思いました。
でも、フィギュアスケートを捨てたわけではありません!チャンネルを作ったとき、みなさんはすごく心配してれくました。「まったくフィギュアスケートがない、何をやってるんだ…」と。
しかし、これはフィギュアスケートの代わりではありません。コーチ陣はみんな、私がビデオブログをしていることを知っています。練習では、時間があるときに、私が練習をすべて終えたときに、コーチの許可をもらって撮影をしています。
(あなたは実際に見せるものがあるので、あなたのブログは素晴らしいですね。)
ええ、フィギュアスケートの歴史です。みなさんが私の人生についてのブログを望んでいるなら、今のところはブログ撮影を続けます。
でも実際、ブログを作ったのは気を紛らわすためでもあるので、例えば挑戦とか、フィギュアスケートから離れたものも見せたかったのです。
父は私に、「登録者数が1000人になったら何か買ってやろう、それまでは取るに足らないことだ」と言いました。
ええ、父には同意です。今のところは重要でない趣味です。フィギュアスケートが重要なもの、私のすべきことだからです。
かなり大変です。エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)と練習しているリンクに近いところで勉強できるよう学校を転校しました。しかし、そこではスポーツ選手の扱いがわからないのです。
家で勉強ができるよう宿題を出すように先生に頼むと、「評価が欲しいなら、授業に出なさい」と言われます。
私は、初めてジュニアグランプリシリーズの大会に行った昨年から、競技キャリアに真剣に没頭しています。国際大会への準備が始まり、大会自体は外国で行われるので、1週間も授業を休みました…。
昨年はこのスケジュールでもまだ進められていたのですが、今年はもうそうは行きません。ですので、この学校の通信制の方に移るつもりです。
(以前はどうだったのでしょうか。)
エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)のグループで練習していたときは、ユリヤ・リプニツカヤが以前通っていた学校に通っていましたので、選手の扱い方がわかっていました。私たちが連絡を取れるよう、素晴らしい主任が先生全員の電話番号をすぐに渡してくれました。
(フィギュアスケートを専門として取り組んでいると言うと、同級生たちはどう受け止めていますか?)
この学校ではある程度受け入れてもらっています。全員ではないですが。「学校を休んで、本当は何もしないでただサボってるんだろう」と私を避難する子たちもいます。他のどの学校でも同じようなことはありました。
誰も助けてくれる人がいなかったこともあります。例えば、同級生を通じてテストとかを渡してくれるよう先生に頼んでも、「自分で取りに来なさい」と言われたことがあります。でも、今の学校ではより落ち着いて受け入れられています。「休んではいるけれど、そう、彼女は選手で、練習をしているから」と。ある程度は心地よくさえもあります。
(子供の頃はフィギュアスケートと水泳をしていたそうですね。どうして選んだのでしょうか。)
水泳の方がうまく行っていました。こんな水泳選手は100年に1度しか出てこないとみんな言っていました。
私たちに選ぶように言われたときがありました。両親は、フィギュアスケートを諦めて私を水泳をさせることにしました。このことは私も知りませんでした。
ある程度時間が経って、リンクが恋しくなって、水泳にはもう行きたくないと気づきました。それで、「ママ、いつリンクに行ける?」と尋ねました。それからはフィギュアスケートだけです。
(大会に出始めたときに、例えばエヴゲニヤ・メドヴェデワがそうしたように、響きの良い名字を選ぼうとは思わなかったのでしょうか?)
※訳注:「タラカノワ」の語源は「タラカン(ゴキブリ)」
いいえ、考えたこともありません。子供の頃、名字のせいで失礼な呼ばれ方をすることがよくあって、私はいつも悲しかったです。新しい学校で初めて名字を言うときは、いまでも笑われたりからかわれることもあります。でも今は私のことをよく「公女」と呼んでくれるので、それは気に入っています。
テストスケートの直前に届いたのですが、日本からの小包がとても印象に残っています。ただ大会に見に来るだけでなく、外国からロシアに巨大な小包に入ったプレゼントを送ってきたのです。
リュブリャナの女の子が、フリーの衣装を着た私の人形を贈ってくれたのも覚えています。私はこんなことは絶対にできません。とても複雑なものですし長い時間がかかります。彼女はこれ全部を手で編んだのです。
本当に素晴らしかったです。私のことを応援してくれて支えてくれるみんなに、たくさんのありがとうを言いたいです。
(人気があるとわかったのはどういう瞬間でしたか?もう単に自分のためだけのことではないと…)
その質問には答えることもできません。ジャッジや観客が好きになってくれるよう、私のことを知ってくれるよう、私のことを覚えてくれるよう、私はみんなのためにいつも滑ってきました。いつだってそうです。
(終)
最終回の第4回です。
(1)JGPSとプログラムについて
(2)プルシェンコ・アカデミーでの練習
(3)トゥトベリゼを離れた経緯
(4)スケートをする目的 ← この記事
アナスタシヤ・タラカノワ:トゥトベリゼから離れたのではなく、フィギュアスケートすべてから離れた
2018/6/12 / Gazeta.ru / エリヴィラ・オンダル
(続き)
「練習では、コーチの許可をもらってブログのために撮影している」
(フィギュアスケートのキャリアや勉強と同時に、Youtubeでのビデオブログに取り組んでいますね。どうやってその時間をとっているのでしょうか。)いつもは、どこかに行くときや、時間があれば練習のときに自分を撮るようにお願いします。編集は、休んでいるとき、もう夜かお風呂で。本当に予定は詰まっていますが、なんとか気を紛らわしたいと思いました。
でも、フィギュアスケートを捨てたわけではありません!チャンネルを作ったとき、みなさんはすごく心配してれくました。「まったくフィギュアスケートがない、何をやってるんだ…」と。
しかし、これはフィギュアスケートの代わりではありません。コーチ陣はみんな、私がビデオブログをしていることを知っています。練習では、時間があるときに、私が練習をすべて終えたときに、コーチの許可をもらって撮影をしています。
(あなたは実際に見せるものがあるので、あなたのブログは素晴らしいですね。)
ええ、フィギュアスケートの歴史です。みなさんが私の人生についてのブログを望んでいるなら、今のところはブログ撮影を続けます。
でも実際、ブログを作ったのは気を紛らわすためでもあるので、例えば挑戦とか、フィギュアスケートから離れたものも見せたかったのです。
父は私に、「登録者数が1000人になったら何か買ってやろう、それまでは取るに足らないことだ」と言いました。
ええ、父には同意です。今のところは重要でない趣味です。フィギュアスケートが重要なもの、私のすべきことだからです。
「評価が欲しいなら、授業に出なさい」
(あなたはスポーツ学校ではなくて本当に普通の学校に通っていますね。勉強とフィギュアスケートの専門的練習とをどのように両立させているのでしょうか。)かなり大変です。エフゲニー・ヴィクトロヴィチ(プルシェンコ)と練習しているリンクに近いところで勉強できるよう学校を転校しました。しかし、そこではスポーツ選手の扱いがわからないのです。
家で勉強ができるよう宿題を出すように先生に頼むと、「評価が欲しいなら、授業に出なさい」と言われます。
私は、初めてジュニアグランプリシリーズの大会に行った昨年から、競技キャリアに真剣に没頭しています。国際大会への準備が始まり、大会自体は外国で行われるので、1週間も授業を休みました…。
昨年はこのスケジュールでもまだ進められていたのですが、今年はもうそうは行きません。ですので、この学校の通信制の方に移るつもりです。
(以前はどうだったのでしょうか。)
エテリ・ゲオルギエヴナ(トゥトベリゼ)のグループで練習していたときは、ユリヤ・リプニツカヤが以前通っていた学校に通っていましたので、選手の扱い方がわかっていました。私たちが連絡を取れるよう、素晴らしい主任が先生全員の電話番号をすぐに渡してくれました。
(フィギュアスケートを専門として取り組んでいると言うと、同級生たちはどう受け止めていますか?)
この学校ではある程度受け入れてもらっています。全員ではないですが。「学校を休んで、本当は何もしないでただサボってるんだろう」と私を避難する子たちもいます。他のどの学校でも同じようなことはありました。
誰も助けてくれる人がいなかったこともあります。例えば、同級生を通じてテストとかを渡してくれるよう先生に頼んでも、「自分で取りに来なさい」と言われたことがあります。でも、今の学校ではより落ち着いて受け入れられています。「休んではいるけれど、そう、彼女は選手で、練習をしているから」と。ある程度は心地よくさえもあります。
「フィギュアスケートを捨てたことがあるなんて、自分でも知らなかった」
(子供の頃はフィギュアスケートと水泳をしていたそうですね。どうして選んだのでしょうか。)
水泳の方がうまく行っていました。こんな水泳選手は100年に1度しか出てこないとみんな言っていました。
私たちに選ぶように言われたときがありました。両親は、フィギュアスケートを諦めて私を水泳をさせることにしました。このことは私も知りませんでした。
ある程度時間が経って、リンクが恋しくなって、水泳にはもう行きたくないと気づきました。それで、「ママ、いつリンクに行ける?」と尋ねました。それからはフィギュアスケートだけです。
「名字のせいで今でも笑われる」
(大会に出始めたときに、例えばエヴゲニヤ・メドヴェデワがそうしたように、響きの良い名字を選ぼうとは思わなかったのでしょうか?)
※訳注:「タラカノワ」の語源は「タラカン(ゴキブリ)」
いいえ、考えたこともありません。子供の頃、名字のせいで失礼な呼ばれ方をすることがよくあって、私はいつも悲しかったです。新しい学校で初めて名字を言うときは、いまでも笑われたりからかわれることもあります。でも今は私のことをよく「公女」と呼んでくれるので、それは気に入っています。
「覚えてもらえるようにいつも滑ってきた」
(あなたにはもうかなりのファンができましたね。)テストスケートの直前に届いたのですが、日本からの小包がとても印象に残っています。ただ大会に見に来るだけでなく、外国からロシアに巨大な小包に入ったプレゼントを送ってきたのです。
リュブリャナの女の子が、フリーの衣装を着た私の人形を贈ってくれたのも覚えています。私はこんなことは絶対にできません。とても複雑なものですし長い時間がかかります。彼女はこれ全部を手で編んだのです。
本当に素晴らしかったです。私のことを応援してくれて支えてくれるみんなに、たくさんのありがとうを言いたいです。
(人気があるとわかったのはどういう瞬間でしたか?もう単に自分のためだけのことではないと…)
その質問には答えることもできません。ジャッジや観客が好きになってくれるよう、私のことを知ってくれるよう、私のことを覚えてくれるよう、私はみんなのためにいつも滑ってきました。いつだってそうです。
(終)
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